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2026.7.5説教要約 Ⅰコリント 3:10-22 「あなたがたが神殿」 井上創牧師
わたしたちはイエス・キリストを土台にして、それぞれに建物を建てていきます。これらは金でできていたり、藁でできていたりしますが、それらは優劣がつけられるものではありません。たとえ、わたしたちが日々積み上げていく証しが燃え尽きて、消えてしまったように見えても、それがキリストを土台としているのであれば、火によって精錬されたもののように、その救いは確かなものとして残るのです。 なぜなら、わたしたちが建てるものは、神さまの神殿だからです。列王記上8章のソロモンの祈りによれば、神殿とは神さまが住まうところというよりは、神さまがそこに名を置くところ、神さまがそこに目を注ぐところであるようです。洗礼によって、わたしたちには霊による交わりが与えられ、魂にしるしが刻まれ、いつも見守りの中に置かれるようになるのです。 この神さまの霊が注がれている神殿を前にして、わたしたちは誠実な祈りを捧げる者となります。もう互いの優劣のために自分を欺かずに、わからないものを「わからない」として、神さまに委ねていくことができるようになるのです。 21節に「すべてのものがあなたがた
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2026.6.28説教要約 マタイ 16:13-20 「岩の上の教会」 井上創牧師
イエスさまは言いました。「シモンよ、あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。この言葉に基づき、カトリック教会は初代の教皇はペトロであるとしています。天の国の鍵とは、罪の赦しを与える権限であると考えられ、やがて教皇には絶大な権力が集中していくこととなりました。 しかし、宗教改革によって生まれたプロテスタント教会は、このような権力の集中に至る「伝統」に疑問を唱え、「聖書のみ」という考え方、つまり一人一人が自由に御言葉の聞こうとする姿勢こそが大切であると説きました。 イエスさまが「人々はわたしを何者だと言うか」との問いに、弟子たちが「ヨハネ、エリヤ、そして預言者です」と答えたのは、旧約聖書の伝統を重んじるユダヤ教においては模範的な回答です。しかし、イエスさまは「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と重ねて問います。伝統を重んじつつも、各々の信仰の有り様が問われているのではないでしょうか。 「あなたはわたしの救い主、生ける神の子です」。この大正解の回答に、イエスさまは「あなたにその告白をする信仰を与えたのは神さま
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2026.6.21説教要約 ルカ 18:35-43 「見えるようになりたいのです」 井上創牧師
連れてこられた盲目の物乞いにイエスさまは問います。「何をしてほしいのか」。これは、「わたしに何ができると信じているのか」という意味なのではないでしょうか。つまり、わたしにとってイエスさまはどのようなお方なのかという、信仰の告白が求められているのです。 既に盲人はイエスさまを「ダビデの子」と呼んでいました。これは、一般的な、そして伝統的なメシアに対する尊称です。しかし、イエスさまが救い主であることを知っているだけでは不十分なのです。それだけではなく、あなたが「何をしてほしい」と願いたくなるお方なのか。あなたの人生においてどのような存在として受け止めているのか、という告白が必要なのです。 「見えるようになりたいのです」と盲人は答えます。これは単なる要求ではありません。「あなたはそれがお出来になる方」「あなたはわたしの目を開く方」という実存をかけた信仰の表明です。イエスさまはこの信仰がその人を救ったと告げます。 どんな名医も、名牧師も、助かろうとしない人を助けることはできません。どうしていいかわからなかった人に、助かろうという意志が与えられて、イ
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2026.6.14説教要約 マタイ 4:1-11 「イエスさまにたよりましょう」 井上創牧師
誘惑とは、目標に向って進もうとするわたしたちを邪魔するもののことです。減量を目標にする人にとってはお菓子が誘惑になり、テストでよい点を取ることを目標にする人にとっては、楽しいテレビ番組が誘惑になったりするわけです。 それでは、聖書において目標とされることは何でしょうか。それは、神さまから離れずにいることです。一緒にいてくださる神さまから離れていってしまうのが、わたしたち人間の罪であり、目標を邪魔する誘惑をわたしたちのところに持ち込むのが悪魔なのです。 神さまの子どもであるイエスさまは、罪のない方でした。つまり、いつも神さまと一緒にいる方だったのです。しかし、敢えて荒れ野に向い、飢えと孤独の中に身を置き、誘惑を体験されました。こうして、わたしたちはイエス・キリストによって罪の誘惑から解き放たれる道を見ることになるのです。 悪魔によってもたらされた三つの誘惑はどれも、自分自身の力を過信することで神さまから離れていくようにとイエスさまをそそのかしました。「自分の知恵や力に頼ろうとする罪の力」がイエスさまを襲います。しかし、3回ともイエスさまは聖書
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2026.6.7説教要約 マタイ 7:7-12 「求めて求められて」 井上創牧師
わたしたちは「自分がされて嫌なことは人にもしない」という言葉をよく聞きますし、それを心がけている人も少なくないでしょう。一方で、「人にして欲しいことを自分も人にする」ということについてはどうでしょうか。つい、余計なお世話になるかもしれないと躊躇してしまってはいないでしょうか。これが日本の伝道が縮こまっている一つの要因かもしれません。わたしたちはもしかしたら、最初から諦めて門を叩こうとさえしていないのではないでしょうか。 イエスさまは、門を叩き続けた方でした。叩くほど頑なになる人々に対して、さまざまなたとえ話を交えながら、どんな機会をも用いて、語りかけ続けました。そしてイエスさまは、過剰なほどの愛によって、自覚のないわたしたち人類の罪を一身に背負って、十字架の上で身の代となってくださったのです。 わたしたちが欲しがったのはパンや魚であったかもしれません。欲しがったものが与えられないと、こどものように駄々をこねるわたしたちに、天の父は既にもっとよいものを与えてくださっているのです。不信と絶望にさいなまれるわたしたちのために、昔から用意されていたも
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2026.5.31説教要約 Ⅰコリント 15:42-58 「朽ちるもの朽ちないもの」 井上創牧師
パウロは、朽ちるものである肉と血は神の国を受け継ぐことができないと言いました。それでは、この自然の命の体はいらないものなのでしょうか。蒔かれる前の卑しい肉体は早々に捨てて、新しい霊の体に復活させていただくべきだと言いたいのでしょうか。パウロは58節で「こういうわけですから」と、この章の結論について話し始めます。「動かされないようにしっかりと立ち、主の業に励みなさい」。彼は、早く霊の体になって神の国に行こうとは言わないのです。 53節では、「朽ちるべきものが朽ちないものを着る」と言われています。「死ぬべきものが死なないものを着る」とも。つまりこれは、わたしたちは朽ちる体、罪の体のままに、キリストの復活の命、霊の体をその上から着せていただけるということなのでしょう。限界のある体、過ちを犯すわたしのままで、しかし赦された者、愛された者として生きていくようにと招かれる。それがキリストの復活に与るということなのです。 律法は神さまの愛の言葉ですが、わたしたちはそれを、互いを裁く道具として用いてしまいます。「おまえはダメだ。そんなことをしても無駄だ。」そ
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2026.5.24説教要約 使徒 2:14-24 「霊を注ぐ」 井上創牧師
ペンテコステの日、ペトロは預言者ヨエルの言葉を引用して、「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と語りました。この終わりの時とは、個人の死や、やがて来る終末を意味しているのではないのでしょう。「霊が注がれる時」、即ち弟子たちに約束の霊が降り、教会が生まれ、洗礼を受ける人たちが起こされていく。しかも、それは霊による洗礼です。この日から、終わりの時代、聖霊の時代、教会の時代が始まりました。 霊が降ると何が起こるか。そのこともまた預言されていました。「若者は幻を見、老人は夢を見る」。聖書が「こうなるであろう」と語るとき、語られる現在の状況は「そうではない」ことがあります。つまり、現実には「若者は幻を見ていない」ということです。幻とは神さまが与えてくださる未来への希望です。自分の行く先に神さまが全てを備え、招き、導いてくださると確信が持てずにいる。老人もまた、自分の残された日々を暗い気持ちで数えることに終始し、その一日一日に込められた神さまのご計画に心を向けようとしない。 しかし、教会には霊が注がれたのです。だから教会は失望しません。洗礼を通し
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2026.5.17説教要約 エフェソ 2:14-22「わたしたちは主の住まい」 井上創牧師
パウロはエフェソ教会の中に起こった対立・分裂の危機に対して、和解を勧めるためにこの手紙を書いたのでしょう。それでは、どのようにして異なる思いを抱く者たちが一つになることができるのでしょうか。 パウロの語っていることをよく聴いてみると、まず二つのものが一つになってから、「敵意を滅ぼす」「律法を廃棄する」「平和を実現する」という順番になっていることがわかります。敵意が消え、対立の原因になっている律法が棄てられてから一つになるわけではないようです。 16節に、キリストは「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ」敵意を滅ぼした、とあります。対立する両者は神さまとの和解によって一つの体となるのです。ローマの信徒への手紙にも書かれていましたが、神さまとの和解は、一方的な神さまからの赦しによって成立しました。対立する両者が共に十字架を前にして自分たちの罪の姿をはっきりと確認することで、神さまからの赦しを得ることができるのです。このようにして、両者は互いを不完全なものとして認め、神さまの恵みによって生かされていることを喜び合い、一つの体となっていく
5月24日読了時間: 2分
2026.5.10説教要約 ヨハネ 20:24-31「わたしの神よ」 井上創牧師
イエスさまが復活して弟子たちのところに来たとき、トマスだけがその場にいませんでした。後になって、復活したイエスさまに会ったと仲間たちに聞かされたトマスは、「わたしは決して信じない」と口にします。しかも、「この指を釘跡に入れ、この手をそのわき腹に入れてみなければ」と。 これは本気で言っていたわけではないでしょう。実際にそういうことがしたかったのではなくて、自分のいないときに来たイエスさまに腹を立てたからなのか、自分だけ仲間はずれにされて悲しかったからなのか、少し意地悪な気持ちからこのように言ってしまったのでしょう。 わたしたちが幸いなとき、わたしたちがイエスさまを信じるのは難しくありません。しかし、深い悲しみの中にいるときには、実際にイエスさまのしるしを見ないと信じられなくなったりするのです。イエスさまはそういうトマスのために、もう一度来てくださいました。信じることができないと言うトマスの心の内を知ってくださったのでしょう。 このようにして、復活なさったイエスさまは、「自分だけこんな目にあうなんて」と悲しむ人や、「神さまはわたしを忘れてしまっ
5月24日読了時間: 2分
2026.5.3説教要約 マタイ 11:25-30「幼子を待つ」 井上創牧師
イエスさまは神の国の秘密について、神さまはそれを「幼子のような者にお示しになりました」と語ります。知恵ある者、賢い者が自分の力で難局を乗り切ろうとするのに対して、この「幼子のような者」とは、親を信頼する子どものように、神さまを信頼して委ねる者を意味しているのではないでしょうか。そのような者たちにはこの世界で起こるさまざまな事柄の中に神さまの御業を見出すことができるのでしょう。 この世界には自力を頼みにして疲れたり、思い悩むことで自らの背に重荷を載せてしまう人がたくさんいるのでしょう。イエスさまはそのような人たちを招き、「わたしの軛を負いなさい」と呼びかけ、幼子のようになるのを待っておられます。 くびきは二頭の牛に荷を引かせるときに用いられます。一般的にはこの時、荷運びになれたベテランの牛と、まだなれない牛とを組ませるそうです。なれた牛が御者の言うことをよく聞き、ペース配分などすることで、荷をスムーズに運ぶことができるのです。 しかし、イエスさまは「わたしの軛」とわざわざ言っておられます。これは一般の軛とは違うということなのではないでしょうか
5月24日読了時間: 2分
2026.4.26説教要約 ルカ 12:22-34「野にある花のように」 井上創牧師
迷い出た羊を探しにくる羊飼いであるイエスさまは、親のない迷子のように不安の中にいるわたしたちを憐れんで、悩まずに生きる道を示してくださろうとします。イエスさまはまず烏や野原の花の姿を通して、そこに思い悩まない生き方を見るようにと勧めます。烏や花にも困難なときはあることでしょう。しかし、どうして思い悩まずにいられるのでしょうか。 イエスさまは「神の国を求めなさい」と続けて言われます。神の国とは、神さまが支配するところ。つまり、その力が豊かに働くところです。わたしたちはつい自分の力を働かせて難局を乗り切ろうとします。それが思い悩みを産んでいるのでしょう。神さまに頼り、神さまに委ねることで、神さまがわたしたちに代わって働いてくださるのです。 烏も花も、自分に与えられたものを、その場、その瞬間においては十分に用いることでしょう。しかし、きっとその先は神さまに任せているのです。一見すると不安定なこの生き方が、しかし却って思い悩みながら不安の中を歩むよりも安定した日々をわたしたちに与えてくれるのです。 人に迷惑をかけることが悪いことであるかのように思い
5月24日読了時間: 2分
2026.4.19説教要約 Ⅰコリ 15:12-22「復活の初穂」 井上創牧師
「もしも死者の復活がなければ」キリストも復活しなかったはずではないかと、パウロは一つの問いを立てました。これはつまり、死が神さまの力を凌駕して、完全に勝利を収めるならば、という意味です。もしそうなれば、教会の宣教は全て無駄になってしまいます。 教会の宣教によって人々に伝えたいメッセージとは、「どんなときも神さまは一緒にいてくれる」「神さまが必ず助けてくれる」「だから希望を捨てないで」、といったところでしょう。これらはしかし、死が勝利すれば、「死の向こう側までは神さまは来てくれない」「死んだら神さまは助けてくれない」「死はわたしたちに絶望をもたらす」という虚しい言葉になるでしょう。神さまへの信頼を失い、その関係を疑うことを「罪」と呼ぶならば、「死者の復活はない」と告白することは、まさに罪の中に置かれているということになるわけです。 アダムという一人の人が、知恵の木の実を食すことで神さまを疑うようになり、身の内に罪を得たと聖書は語ります。神さまはしかし、人をそのままで置こうとはなさいませんでした。神さまのシナリオは、信頼が取り戻され、人が真に生き
5月24日読了時間: 2分
2026.4.12説教要約 ルカ 24:13-35 「心は燃えていた」 井上創牧師
二人の弟子たちが、イエスさまが十字架につけられたこと、そして遺体が納められた墓が空であったことについて話し合っていました。二人はまだイエスさまの復活を信じられずにいたのです。そんな二人だからでしょうか。近づいてきた方がイエスさまだとは気が付きません。イエスさまは同道した二人に、聖書を解き明かしながら、十字架と復活の意味について教えました。それでも二人はそれがイエスさまだとわかりません。 日も暮れかけ、三人は宿を共にし、一緒に食卓を囲みます。そして、イエスさまがパンを裂いたとき、二人の目は開くのです。ところが、そのときもうイエスさまは見えなくなっていました。 不思議なことです。イエスさまだとわからないときには姿が見えて、わかった途端に見えなくなるのです。きっと復活されたイエスさまはそうやって、今もわたしたちの近くで働いておられるのではないでしょうか。誰かと聖書について話し合ったり、身の回りで起きた出来事の中に神さまの御心を探したり、食卓を一緒に囲んだり。そうしているところにイエスさまもいてくださるのでしょう。 たとえ見えないのだとしても、わた
4月19日読了時間: 2分
2026.4.5説教要約 マルコ 16:1-8 「転がされた石」 井上創牧師
復活の日の朝、墓に向う婦人たちの心にあったのは、「イエスさまの遺体に油を塗ること」と「墓の石をどうやってどけるか」ということでした。しかし、墓につくと石はどけられ、遺体は消えていました。そして、白い衣を着た若者から「イエスさまは復活した。ガリラヤでお目にかかれる」と聞くのです。 それまでは目的としていたことがあり、またその困難さに頭を悩ませていたのですが、それらが新しい目的によって書き換えられる。それが復活の一つのメッセージなのでしょう。 もしかしたら、わたしたちの心にも重いフタがされているかもしれません。それはいかにも開けるのが困難であるかのようにも思えます。場合によっては、自分で封じてしまってもいるかもしれません。本当は自分の大切な一部であるはずなのに、それらをなかったことのようにして、深く沈めてしまっている過去、体験、出来事。 しかし、イエスさまは、墓の中に葬られているそれらに寄り添い、共に横たわっておられます。そして、イエスさまは墓石を突き破り、ガリラヤへと出て行かれます。わたしたちがイエスさまの復活に与るとは、重いフタとなっていた
4月19日読了時間: 2分
2026.3.29説教要約 Ⅰコリ 10:23-11:1 「他人の利益」 井上創牧師
パウロは10章において偶像礼拝、そしてそこで献げられた肉を避けるようにとコリント教会の人々に勧めています。しかし続く今日の箇所で、彼はその例外についても述べています。 まず、「市場で売られているものは食べてもいい」。これは全ての造られたものは神さまのものであるからであり、またその由来を確かめることが難しいからでもあるのでしょう。次に、「招かれた家で出されたものは食べる」。ここでパウロは、良心の問題を挙げています。つまり、招いて食事を整えてくれた相手の思いに対する感謝の気持ちがあるなら、いちいち詮索するものではないと言っているのでしょう。 最後に、「誰かが『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら食べてはならない」。これは教えてくれた相手の良心、つまり気遣いや真心に応えて食べないという選択をするようにという勧めだと言えるでしょう。 パウロはこれらの勧めの締めくくりに、「わたしはキリストに倣っている」と言います。イエス・キリストこそが、「こうでなければならない」という決まり事を、自分の中にある思いやりや感謝、そして他者からの真心によって変えてい
4月5日読了時間: 2分
2026.3.22説教要約 エフェソ 2:1-10「神の賜物」 井上創牧師
パウロは「あなたがたはかつては死んでいた」と言います。死が過去の出来事であるかのように言うのは、この死が肉体の死や社会的な死を意味しているのではないからでしょう。 「あやまちと罪のために死んでいた」ということは、ここで言われている罪とは、間違いや失敗などのあやまちと区別されているということでしょう。罪とは、聖書においては「的を外す」という意味です。ここから、罪とは神さまの御心から外れること、永遠なる存在から切り離されて存在しようとすること、つまり永遠の命を失うことだと理解されるようになったのです。 イエスさまの復活は、すべてのことが死で終わらないということ。どれほど絶望的な状況の中にあっても希望はあるのだということ。そして、すべてのことは死によって虚しくされないのだということをわたしたちに教えてくれています。 人間はイエスさまを十字架へと追いやり、神さまとの関係を完全に断ちました。しかし、それを超えてなおもわたしたちに手を伸ばす一方的な神さまの慈しみを、聖書は愛と呼びます。 わたしたちが「天の王座を継ぐ」とは、王である神さまの御心を世に体
4月5日読了時間: 2分
2026.3.15説教要約 使徒 16:16-40「わたしたちが歌うとき」 井上創牧師
占いとは、未来を見通そうとする行為です。人はこれから起こる出来事を予測することで、少しでも未来を自分に都合のいいように変えようとします。しかし、先のことを知るのは神さまだけです。明日のことを思い煩い、未来を自分の思い通りにしたいと願うわたしたちもまた、占いの霊による支配の下にあると言えるかもしれません。 パウロはこの霊と関わることで捕えられ、鞭打たれ、自由を奪われます。これは彼にとって不都合なことであったに違いありません。しかし、パウロたちは牢の中で祈り、賛美するのです。なぜ、わけがわからない、不条理のただ中にあって、パウロは賛美したのでしょうか。それは、どのようなときにもイエスさまが共にいてくださると信じていたからではないでしょうか。彼は自分にとって都合のいいことが起こったから、神さまを誉め讃えたのではないのです。いつもイエスさま一緒にいてくださる。そのことが嬉しくて賛美したのでしょう。 苦境の中、逃げる機会が与えられていながら、とどまって賛美するパウロたちの姿を見て、看守は洗礼へと導かれていきます。更には、歪められた世の権力構造にもくさび
3月22日読了時間: 2分
2026.3.8説教要約 ヨハネ 15:1-11「まことのぶどうの木」 井上創牧師
イエスさまは言いました。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」。農夫である神さまはこのぶどうの枝の手入れをなさいます。実りの多い房を残して、痩せた房を切り取り、場合によっては枝ごと取り除きもします。しかし、枝は自分でどの房を大きくしようかと迷う必要はありません。どれを育てて、どれを切り取るかという判断は農夫の仕事です。わたしたちがすることは、ただ木につながっていることだけです。あとは自然と実りを得ることができるはずです。 ここでは、「イエスさまにつながる」ということと「愛にとどまる」ということが同じこととして語られます。この世界は神さまの愛で満ちています。木の根が水を吸い上げて木の全体にまでそれを巡らせるように。葉が日光から栄養を得て、それによって木の全体を生かすように、わたしたちはイエスさまを通して、世界に満ちる神さまの愛を全身で受けて生きることができるのです。 わたしたちが実りを得たいと願うのであれば、それが自分を立派に飾り立てるための実りであってはなりません。「互いに愛し合う」という神さまの言葉がわたしたちの内に響き渡
3月22日読了時間: 2分
2026.3.1説教要約 ルカ 19:1-10 「救いがこの家を訪れた」 井上創牧師
ザアカイは木に登ってまでもイエスさまを見たいと願いました。一つ前の物語、目の見えない人が周囲の制止を振り切ってイエスさまを求めて叫び続けた心情と重なるように思えます。ザアカイもまた自分の在り方に揺らぎを覚え、心の奥底では助けを求めていたのではないでしょうか。 ザアカイはイエスさまから「あなたの家に泊まりたい」と言われたときに喜びます。地位の高い人や高名な人が集落を訪れたとき、その人を泊めるのはその集落の最も豊かな家であったからです。徴税人としてみんなから嫌われていて彼は、しかし、そうして築いた富を用いてこそ貴人をもてなすことができるのだと誇りに思ってさえいたことでしょう。 しかし、ザアカイはその富を手放すことを誓います。そのきっかけとなったのは、「罪」を自覚したことでした。「あの人は罪人と共に食事をしている」。人々の言葉によってザアカイは気が付きます。自分は罪人であること、そして、救い主はその自分の隣に来てくださったこと。善い人間となったから、来てくださったのではない。罪人のまま、そのままのわたしの隣に寄り添ってくださる方がおられるのだという
3月8日読了時間: 2分
2026.2.15説教要約 ヨハネ 11:17-27「このことを信じるか」 井上創牧師
亡くなったラザロの姉妹であるマルタは、「死者が終わりの日に復活する」という教えを知っていました。「イエスさまが神さまに願うことは、かなえられる」ことも知っていました。おそらく、マリアも知っていたでしょう。しかし、実際に兄弟の死を前にしたとき、彼女たちの心は悲しみに支配されていました。そこでイエスさまはマルタに問うのです。「信じるか」と。 わたしたちは証拠を見せられたり、証明してもらえれば、安心して物事を受け入れることができます。しかし、不確かなことや、科学的ではないことについては懐疑的になってしまうのではないでしょうか。イエスさまが復活であり、命である。そのことを証明できるでしょうか。その証拠はあるでしょうか。 教会ではそう言われているということを「知っている」だけでは、わたしたちは諸々の誘惑、中でもその最たる死の前では無力なのです。「信じる」とは、強く願うこと、心から求めることです。パウロが言うように、「復活がないとしたら、わたしたちのなしていることは全て虚しい」と、不確かなことを不確かなままに、そこに自分を委ね、投げ出していく。それが「信
3月8日読了時間: 2分
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