top of page
検索
2026.10.4説教要約 使徒 20:7-12「ここに命がある」 井上創牧師
パウロが話をしている最中に眠りこけてしまった青年がいました。この「眠り」とは何を意味しているのでしょうか。 イエスさまは度々「目を覚ましていなさい」と語ります。この「眠り」は「罪への誘惑」とも受け取ることができるかと思います。神さまのことを忘れ、肉体的な欲望に負けてしまうわたしたち。自己中心に生きたくなるわたしたちの性を「眠り」と表現しているのです。 また、「眠り」は死を連想させます。教会でも天に召された方々を「永眠者」と呼んだりします。パウロは、罪によってもたらされるのが死だと言っています。 この青年の眠りと死の前後にパン裂きが描かれています。これは初代教会から現在まで、礼拝によって紡がれてきた教会の歴史の中に、度々痛ましい出来事が起こってきたことを意味しているのではないでしょうか。宣教の歴史を紐解けば、それを使命としてきた人たちは、豊かな実りを得ることもあれば、多くの困難の中で殺害されることさえあったのです。それでも、パン裂きは繰り返されてきました。 パウロの「まだ息がある」という言葉は、「そこに、息(命)がある」とも訳せます。宣教の歴
10月11日読了時間: 2分
日本基督教団の世界聖餐日・世界宣教の日とは?
日本基督教団は10月の第1日曜日を「世界聖餐日・世界宣教の日」に定めています。 前者は1930年代にアメリカの長老派教会で始まり、1940年にアメリカ全体に広まったエキュメニカルな運動であり、現在はカトリックとプロテスタント諸教派が相互の違いや多様性を認め合い、分断や対立から一致へと向かう超教派運動として世界中で行われています。 後者は戦後に教団が世界聖餐日を採用するに当たり、世界の教会の一致の証として世界宣教のために協力し合うことを目的として定められ、現在は海外で働く宣教師やアジア圏から教団関係学校に留学している学生を覚える日になっています。 日本基督教団では、1965年から世界宣教委員会が設置され、主として海外への宣教師派遣・海外からの宣教師受け入れの人事、海外教会との伝道協力を担当しています。現在、約20名の宣教師を国外へ派遣、そのほとんどが日本人教会に仕えています。近年は現地の人々を対象とした伝道も増え、その働きは広がりを見せつつあります。一方、日本宣教のために仕える受入れ宣教師数は現在約65名で、半数以上が教育機関を任地としています
10月11日読了時間: 2分
2026.9.20説教要約 Ⅰコリント 12:12-27「一つの体」 井上創牧師
急速に多様化する世界において、異質なものに対峙するとき、わたしたちはそれに拒否感を覚えたり、排他的になったりするのではないでしょうか。新約聖書の時代も、ローマ帝国の支配地域である地中海世界は多様な民族や文化が入り交じり、混沌とした状態であったと想像できます。だからこそ、ユダヤ人たちは純血主義、民族主義へと傾き、排他的な律法主義に陥っていったのでしょう。 律法主義とは「こうでなければならない」という、わたしたちの思い込みや自己正当化につながっています。そして、神さまを超えて、人が自分の正義をもって人を裁く姿を、聖書は「罪」として描いています。他者を裁き、傷つけるだけではありません。「思い通りにならない現実」という思い込みは、自分自身をも苦しめます。イエスさまは、そういう自分中心の思いから離れて、神さまの声に耳を傾け、その思いに身を任せることを、わたしたちに教えてくださいました。 わたしたちはそれぞれに違う人間です。感じ方も、考え方も違います。それでも一つの群れ、一つの教会としていられるのは、イエス・キリストの体の一部として召されているからです。
10月11日読了時間: 2分
2026.9.13説教要約 創世記 6:9-22「ノアの船造り」 井上創牧師
神さまは地上の世界が堕落しているのをご覧になって、世界を一度水で洗い流そうと考えました。雨が降り始め、地表は水に沈みました。まるでこの世の終わりのような風景だったことでしょう。しかし、神さまはすべての生き物を滅ぼしてしまったわけではありませんでした。雨が降る前に、あらかじめノアとその家族に呼びかけて巨大な箱舟を造らせたのです。そして、そこにたくさんの生き物を載せて、この舟を希望のしるしとしました。 曇り空と薄暗い箱舟の暮らしが何日も続きました。やがて雨は上がり、水が引くと、大地が姿を表し始めました。ノアたちが舟を下りると、神さまは空に虹を架けて「もう二度と世界を滅ぼそうとはしない」と約束をしてくださいました。 だからもう、わたしたちは恐れることはないのです。どれほど世界の最後だと思えるような状況に置かれたとしても、神さまによる虹の約束があるからです。それでも信じられないときは、イエスさまを思い出しましょう。イエスさまこそが、この先は絶望しかないと思えるような十字架を経て、暗闇の墓穴から希望の復活へと道を示してくださったお方だからです。...
10月11日読了時間: 2分
2026.9.6説教要約 フィリピ 4:10-20「香ばしい香り」 井上創牧師
フィリピの教会は何度もパウロを支え助けてきました。パウロはそのことに感謝をして手紙を綴っています。しかし、パウロが喜んでいるのは、物が欲しいからではありません。何かが不足していても、貧しさの中にあっても、空腹でも満足するすべをパウロは習い覚えたと語ります。では、一体何を喜んでいるのでしょうか。 一つは、14節にあるように「苦しみを共にしてくれた」からです。フィリピの教会はパウロに寄り添おうとする思いを表してくれたから。一緒に祈ってくれたからです。パウロはこれを「香ばしい香り」と呼びました。神殿や幕屋で神さまに捧げられた生贄の「なだめの香り」と同じように、焼いた肉そのものではなく、その香りを喜んでいる。実際の物資ではなく、その思いを喜んでいるのです。 二つ目には、それが「あなたがたの益となる豊かな実」となるであろうとパウロが望み、期待し、信じているからです。他者から吸い取り、奪うのではなく、捧げる者となることの益。大きく、立派になるのではなく、小さく乏しい者となることの豊かさ。人を支配するのではなく、仕える者となることの心地よさ。そういったもの
10月11日読了時間: 2分
2026.8.30説教要約 ルカ 18:1-14 「憐れみを求める」 井上創牧師
1節からの一つ目の話には、子どものようになることと、子どのようなものを受け入れることという二つの主題が語られていました。前者は個人の信仰に関わること、後者は教会の務めに関わることだと言えるでしょう。 6節からの二つ目の話では、個人に対し、あるいは教会に対してもたらされる「つまずき」について語られています。つまずきとは、わたしたちを神さまから引き離そうとする試みのことであり、わたしたちが神さまを疑い、神さまの造られたこの世界への信頼を失ってしまうことを意味しているのでしょう。 そうであれば、4節の「子どものように自分を低くする」とは、赤子が全き信頼をもって親に身を委ねるように、自分の力を捨て、すべてを神さまに委ねて任せ切るという姿勢のことなのではないでしょうか。 わたしたちをつまずかせる事柄は世にあふれています。戦争や災害、病や人間関係など。「なぜわたしが」「神さまはなぜわたしをこんな目に遭わせるのか」。そういう嘆きと、戸惑いと、疑いの傍らに、キリストの十字架が立てられています。「父よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」という叫びを、地の底
10月11日読了時間: 2分
2026.8.16説教要約 ローマ 12:9-21「平和と平安」 井上創牧師
聖書の平和という言葉の中には、平安や平穏という意味も込められているようです。そうであれば、相手が飲まざるを得ない条件を突きつけて作り出す平和や、正論・道理を持って相手を制圧するようなやり方で得られる平和は、真の平和とは言えないのではないでしょうか。 今日の聖書箇所では、平和に至る道のために「互いに愛し合う」ことを勧めています。それは、自分を謙らせていくことでもあります。神さま御自身が、全知全能の神であることを捨てて、人間となられたのがキリストの出来事です。ここに神さまの「愛」が表されています。 わたしたちが互いに愛し合い、喜び合い、受け入れ合っていくためには、二つのことが大切です。自分の気持ちを話すことと、相手の気持ちを聞くことです。一朝一夕になることではないでしょう。とても時間のかかる、世の人からは愚かとさえ見えるやり方を、しかし、神さまは選ばれました。だから、平和への道を行くわたしたちは「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈っていく」ようにと勧められているのです。 17節、「悪に悪を返す」とは、互いに自分の思いをぶつけ合う様子を
10月11日読了時間: 2分
2026.8.9説教要約 ヨハネ 6:1-15 「みんなでごはん」 井上創牧師
この日は過越祭に近い日だったと書かれています。新約聖書において、過越祭はイエスさまが十字架についた時でもあります。このため、今日の5千人の給食の物語は、イエスさまと弟子たちの最後の晩餐の物語と並んで、聖餐式のモデル、つまりミサ(礼拝)の原点の一つとされています。 イエスさまがなさったしるしを見た人々が集まってきます。この群衆を前に、イエスさまは弟子たちに「この人たちを食べさせるには、どこでパンを買えばいいかと問います。フィリポは余りの人数の多さに、とても賄えないと諦めてしまったようです。アンデレも、一人の子どもをイエスさまのところに連れて来ながらも、その持つものでは「何の役にも立たないでしょう」と、諦めてしまっています。 礼拝とはまさにこのように、自分たちの生きている困難さの中に解決を見出せない状況を前提としているのではないでしょうか。そこに神さまの力が働きます。 イエスさまは人々を草の上に座らせます。わたしたちがイエスさまを羊飼いとして仰ぎ、青草の原へと導いていただき、そこで膝をかがめるとき、イエスさまは感謝の祈りを唱えてパンを裂き、それ
10月11日読了時間: 2分
2026.7.26説教要約 ヨハネ 1:10-14「幕屋を張られた」 井上創牧師
「わたしたちの間に宿られた」と書かれている言葉は、「わたしたちの間に幕屋を張られた」とも訳せます。旧約聖書に度々描かれる「幕屋」とは、十戒の石版が入った箱を収めておくテントのような建物で、祭司が祈りを捧げるための場所です。それでは、幕屋ではどのような祈りが捧げられるのでしょうか。そこでは、犠牲の献げものが捧げられ、罪の赦しを願うとりなしの祈りが捧げられます。 イエス・キリストは、わたしたちの罪が赦されるようにと神さまにとりなしの祈りを捧げてくださいました。そして、御自身を傷のない献げものとして捧げるために十字架に上ってくださいました。また、弟子たちの足を洗い、互いに愛し合うようにと教えてくださいました。 わたしたに「あれ」という言葉をもって関わろうとしてくださる神さまの愛は、肉を持つ人間となり、この地を共に歩いてくださいました。「あなたはあれと願われている存在である」という神さまの思いを受け止める人は、神さまとの間、隣人との間に幕屋が張られ、そこでイエスさまが祈ってくださいます。わたしたちはこの祈りによって、赦しと他者へのとりなしの中を生きる
7月29日読了時間: 2分
2026.7.19説教要約 ルカ 20:9-19 「ぶどう園の農夫」 井上創牧師
律法学者たちも祭司長たちも、自分たちは民衆の味方であり、神さまのために働いているのだという思いがあったことでしょう。だから、イエスさまのたとえ話を聞いたときには「わたしたちは農園の主人の僕としてたとえられている」と思ったのではないでしょうか。また、民衆はたとえ話の結末に気を取られ、ぶどう園の収益と権利が他者に奪われることに対して「そんなことがあってはなりません」と言っているのではないでしょうか。 イエスさまがこのたとえ話に続けて引き合いに出された聖書の言葉は一見すると「ぶどう園の話」とは関係がないようにも思われます。しかし実は「捨てられた石」と「外に放り出された主人の息子」が関連付けられ、そこに焦点が絞られています。このことに気が付いた律法学者や祭司長たちは、自分たちが僕ではなく農夫として語られていたことを悟るのです。 現代のわたしたちにとって、このぶどう園は世界そのものと言えるかもしれません。環境を破壊し、自然から搾取し、神さまの作られた世界を自分たちのものであるかのように取り扱う。そんなわたしたちへの警告のようにも受け取れます。...
7月29日読了時間: 2分
2026.7.12説教要約 ヨハネ 4:46-54「帰りなさい」 井上創牧師
イエスさまのなさる奇跡のわざはどれも素晴らしいもので、感動を覚えます。しかし、わたしたちはこころの奥底では「それならば、なぜわたしの祈りは聞かれないのか」「今こそ奇跡が必要なのに」と思ってはいないでしょうか。そういうわたしたちの思いを知って、イエスさまは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と、わたしたちの深い罪を憐れんでくださいます。 そして、息子のために家に来てほしいと懇願する役人に向って、「帰りなさい」」と言うのです。赴いてその手で触れることも、耳元で語りかけることもしません。一見すると冷たい態度のようにも思えます。しかし、奇跡は起こります。イエスさまが「あなたの息子は生きる」と言われたその言葉を、その人が信じて帰ったからです。 イエスさまはわたしたちにも語りかけておられます。教会は神さまの恵みにあふれ、天国のように感じられることもあるかもしれません。それでもわたしたちは各々の現場に帰っていかなければなりません。そこが困難と苦悩に満ちているとしても。しかし、わたしたちは一人ではありません。イエスさまの「言葉」が
7月29日読了時間: 2分
2026.7.5説教要約 Ⅰコリント 3:10-22 「あなたがたが神殿」 井上創牧師
わたしたちはイエス・キリストを土台にして、それぞれに建物を建てていきます。これらは金でできていたり、藁でできていたりしますが、それらは優劣がつけられるものではありません。たとえ、わたしたちが日々積み上げていく証しが燃え尽きて、消えてしまったように見えても、それがキリストを土台としているのであれば、火によって精錬されたもののように、その救いは確かなものとして残るのです。 なぜなら、わたしたちが建てるものは、神さまの神殿だからです。列王記上8章のソロモンの祈りによれば、神殿とは神さまが住まうところというよりは、神さまがそこに名を置くところ、神さまがそこに目を注ぐところであるようです。洗礼によって、わたしたちには霊による交わりが与えられ、魂にしるしが刻まれ、いつも見守りの中に置かれるようになるのです。 この神さまの霊が注がれている神殿を前にして、わたしたちは誠実な祈りを捧げる者となります。もう互いの優劣のために自分を欺かずに、わからないものを「わからない」として、神さまに委ねていくことができるようになるのです。 21節に「すべてのものがあなたがた
7月12日読了時間: 2分
2026.6.28説教要約 マタイ 16:13-20 「岩の上の教会」 井上創牧師
イエスさまは言いました。「シモンよ、あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」。この言葉に基づき、カトリック教会は初代の教皇はペトロであるとしています。天の国の鍵とは、罪の赦しを与える権限であると考えられ、やがて教皇には絶大な権力が集中していくこととなりました。 しかし、宗教改革によって生まれたプロテスタント教会は、このような権力の集中に至る「伝統」に疑問を唱え、「聖書のみ」という考え方、つまり一人一人が自由に御言葉の聞こうとする姿勢こそが大切であると説きました。 イエスさまが「人々はわたしを何者だと言うか」との問いに、弟子たちが「ヨハネ、エリヤ、そして預言者です」と答えたのは、旧約聖書の伝統を重んじるユダヤ教においては模範的な回答です。しかし、イエスさまは「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と重ねて問います。伝統を重んじつつも、各々の信仰の有り様が問われているのではないでしょうか。 「あなたはわたしの救い主、生ける神の子です」。この大正解の回答に、イエスさまは「あなたにその告白をする信仰を与えたのは神さま
7月12日読了時間: 2分
2026.6.21説教要約 ルカ 18:35-43 「見えるようになりたいのです」 井上創牧師
連れてこられた盲目の物乞いにイエスさまは問います。「何をしてほしいのか」。これは、「わたしに何ができると信じているのか」という意味なのではないでしょうか。つまり、わたしにとってイエスさまはどのようなお方なのかという、信仰の告白が求められているのです。 既に盲人はイエスさまを「ダビデの子」と呼んでいました。これは、一般的な、そして伝統的なメシアに対する尊称です。しかし、イエスさまが救い主であることを知っているだけでは不十分なのです。それだけではなく、あなたが「何をしてほしい」と願いたくなるお方なのか。あなたの人生においてどのような存在として受け止めているのか、という告白が必要なのです。 「見えるようになりたいのです」と盲人は答えます。これは単なる要求ではありません。「あなたはそれがお出来になる方」「あなたはわたしの目を開く方」という実存をかけた信仰の表明です。イエスさまはこの信仰がその人を救ったと告げます。 どんな名医も、名牧師も、助かろうとしない人を助けることはできません。どうしていいかわからなかった人に、助かろうという意志が与えられて、イ
7月12日読了時間: 2分
2026.6.14説教要約 マタイ 4:1-11 「イエスさまにたよりましょう」 井上創牧師
誘惑とは、目標に向って進もうとするわたしたちを邪魔するもののことです。減量を目標にする人にとってはお菓子が誘惑になり、テストでよい点を取ることを目標にする人にとっては、楽しいテレビ番組が誘惑になったりするわけです。 それでは、聖書において目標とされることは何でしょうか。それは、神さまから離れずにいることです。一緒にいてくださる神さまから離れていってしまうのが、わたしたち人間の罪であり、目標を邪魔する誘惑をわたしたちのところに持ち込むのが悪魔なのです。 神さまの子どもであるイエスさまは、罪のない方でした。つまり、いつも神さまと一緒にいる方だったのです。しかし、敢えて荒れ野に向い、飢えと孤独の中に身を置き、誘惑を体験されました。こうして、わたしたちはイエス・キリストによって罪の誘惑から解き放たれる道を見ることになるのです。 悪魔によってもたらされた三つの誘惑はどれも、自分自身の力を過信することで神さまから離れていくようにとイエスさまをそそのかしました。「自分の知恵や力に頼ろうとする罪の力」がイエスさまを襲います。しかし、3回ともイエスさまは聖書
7月12日読了時間: 2分
2026.6.7説教要約 マタイ 7:7-12 「求めて求められて」 井上創牧師
わたしたちは「自分がされて嫌なことは人にもしない」という言葉をよく聞きますし、それを心がけている人も少なくないでしょう。一方で、「人にして欲しいことを自分も人にする」ということについてはどうでしょうか。つい、余計なお世話になるかもしれないと躊躇してしまってはいないでしょうか。これが日本の伝道が縮こまっている一つの要因かもしれません。わたしたちはもしかしたら、最初から諦めて門を叩こうとさえしていないのではないでしょうか。 イエスさまは、門を叩き続けた方でした。叩くほど頑なになる人々に対して、さまざまなたとえ話を交えながら、どんな機会をも用いて、語りかけ続けました。そしてイエスさまは、過剰なほどの愛によって、自覚のないわたしたち人類の罪を一身に背負って、十字架の上で身の代となってくださったのです。 わたしたちが欲しがったのはパンや魚であったかもしれません。欲しがったものが与えられないと、こどものように駄々をこねるわたしたちに、天の父は既にもっとよいものを与えてくださっているのです。不信と絶望にさいなまれるわたしたちのために、昔から用意されていたも
7月12日読了時間: 2分
2026.5.31説教要約 Ⅰコリント 15:42-58 「朽ちるもの朽ちないもの」 井上創牧師
パウロは、朽ちるものである肉と血は神の国を受け継ぐことができないと言いました。それでは、この自然の命の体はいらないものなのでしょうか。蒔かれる前の卑しい肉体は早々に捨てて、新しい霊の体に復活させていただくべきだと言いたいのでしょうか。パウロは58節で「こういうわけですから」と、この章の結論について話し始めます。「動かされないようにしっかりと立ち、主の業に励みなさい」。彼は、早く霊の体になって神の国に行こうとは言わないのです。 53節では、「朽ちるべきものが朽ちないものを着る」と言われています。「死ぬべきものが死なないものを着る」とも。つまりこれは、わたしたちは朽ちる体、罪の体のままに、キリストの復活の命、霊の体をその上から着せていただけるということなのでしょう。限界のある体、過ちを犯すわたしのままで、しかし赦された者、愛された者として生きていくようにと招かれる。それがキリストの復活に与るということなのです。 律法は神さまの愛の言葉ですが、わたしたちはそれを、互いを裁く道具として用いてしまいます。「おまえはダメだ。そんなことをしても無駄だ。」そ
7月12日読了時間: 2分
2026.5.24説教要約 使徒 2:14-24 「霊を注ぐ」 井上創牧師
ペンテコステの日、ペトロは預言者ヨエルの言葉を引用して、「終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と語りました。この終わりの時とは、個人の死や、やがて来る終末を意味しているのではないのでしょう。「霊が注がれる時」、即ち弟子たちに約束の霊が降り、教会が生まれ、洗礼を受ける人たちが起こされていく。しかも、それは霊による洗礼です。この日から、終わりの時代、聖霊の時代、教会の時代が始まりました。 霊が降ると何が起こるか。そのこともまた預言されていました。「若者は幻を見、老人は夢を見る」。聖書が「こうなるであろう」と語るとき、語られる現在の状況は「そうではない」ことがあります。つまり、現実には「若者は幻を見ていない」ということです。幻とは神さまが与えてくださる未来への希望です。自分の行く先に神さまが全てを備え、招き、導いてくださると確信が持てずにいる。老人もまた、自分の残された日々を暗い気持ちで数えることに終始し、その一日一日に込められた神さまのご計画に心を向けようとしない。 しかし、教会には霊が注がれたのです。だから教会は失望しません。洗礼を通し
7月12日読了時間: 2分
2026.5.17説教要約 エフェソ 2:14-22「わたしたちは主の住まい」 井上創牧師
パウロはエフェソ教会の中に起こった対立・分裂の危機に対して、和解を勧めるためにこの手紙を書いたのでしょう。それでは、どのようにして異なる思いを抱く者たちが一つになることができるのでしょうか。 パウロの語っていることをよく聴いてみると、まず二つのものが一つになってから、「敵意を滅ぼす」「律法を廃棄する」「平和を実現する」という順番になっていることがわかります。敵意が消え、対立の原因になっている律法が棄てられてから一つになるわけではないようです。 16節に、キリストは「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ」敵意を滅ぼした、とあります。対立する両者は神さまとの和解によって一つの体となるのです。ローマの信徒への手紙にも書かれていましたが、神さまとの和解は、一方的な神さまからの赦しによって成立しました。対立する両者が共に十字架を前にして自分たちの罪の姿をはっきりと確認することで、神さまからの赦しを得ることができるのです。このようにして、両者は互いを不完全なものとして認め、神さまの恵みによって生かされていることを喜び合い、一つの体となっていく
5月24日読了時間: 2分
2026.5.10説教要約 ヨハネ 20:24-31「わたしの神よ」 井上創牧師
イエスさまが復活して弟子たちのところに来たとき、トマスだけがその場にいませんでした。後になって、復活したイエスさまに会ったと仲間たちに聞かされたトマスは、「わたしは決して信じない」と口にします。しかも、「この指を釘跡に入れ、この手をそのわき腹に入れてみなければ」と。 これは本気で言っていたわけではないでしょう。実際にそういうことがしたかったのではなくて、自分のいないときに来たイエスさまに腹を立てたからなのか、自分だけ仲間はずれにされて悲しかったからなのか、少し意地悪な気持ちからこのように言ってしまったのでしょう。 わたしたちが幸いなとき、わたしたちがイエスさまを信じるのは難しくありません。しかし、深い悲しみの中にいるときには、実際にイエスさまのしるしを見ないと信じられなくなったりするのです。イエスさまはそういうトマスのために、もう一度来てくださいました。信じることができないと言うトマスの心の内を知ってくださったのでしょう。 このようにして、復活なさったイエスさまは、「自分だけこんな目にあうなんて」と悲しむ人や、「神さまはわたしを忘れてしまっ
5月24日読了時間: 2分
お知らせ: Blog2
bottom of page