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2026.4.19説教要約 Ⅰコリ 15:12-22「復活の初穂」 井上創牧師
「もしも死者の復活がなければ」キリストも復活しなかったはずではないかと、パウロは一つの問いを立てました。これはつまり、死が神さまの力を凌駕して、完全に勝利を収めるならば、という意味です。もしそうなれば、教会の宣教は全て無駄になってしまいます。 教会の宣教によって人々に伝えたいメッセージとは、「どんなときも神さまは一緒にいてくれる」「神さまが必ず助けてくれる」「だから希望を捨てないで」、といったところでしょう。これらはしかし、死が勝利すれば、「死の向こう側までは神さまは来てくれない」「死んだら神さまは助けてくれない」「死はわたしたちに絶望をもたらす」という虚しい言葉になるでしょう。神さまへの信頼を失い、その関係を疑うことを「罪」と呼ぶならば、「死者の復活はない」と告白することは、まさに罪の中に置かれているということになるわけです。 アダムという一人の人が、知恵の木の実を食すことで神さまを疑うようになり、身の内に罪を得たと聖書は語ります。神さまはしかし、人をそのままで置こうとはなさいませんでした。神さまのシナリオは、信頼が取り戻され、人が真に生き
2 時間前読了時間: 2分
2026.4.12説教要約 ルカ 24:13-35 「心は燃えていた」 井上創牧師
二人の弟子たちが、イエスさまが十字架につけられたこと、そして遺体が納められた墓が空であったことについて話し合っていました。二人はまだイエスさまの復活を信じられずにいたのです。そんな二人だからでしょうか。近づいてきた方がイエスさまだとは気が付きません。イエスさまは同道した二人に、聖書を解き明かしながら、十字架と復活の意味について教えました。それでも二人はそれがイエスさまだとわかりません。 日も暮れかけ、三人は宿を共にし、一緒に食卓を囲みます。そして、イエスさまがパンを裂いたとき、二人の目は開くのです。ところが、そのときもうイエスさまは見えなくなっていました。 不思議なことです。イエスさまだとわからないときには姿が見えて、わかった途端に見えなくなるのです。きっと復活されたイエスさまはそうやって、今もわたしたちの近くで働いておられるのではないでしょうか。誰かと聖書について話し合ったり、身の回りで起きた出来事の中に神さまの御心を探したり、食卓を一緒に囲んだり。そうしているところにイエスさまもいてくださるのでしょう。 たとえ見えないのだとしても、わた
4月19日読了時間: 2分
2026.4.5説教要約 マルコ 16:1-8 「転がされた石」 井上創牧師
復活の日の朝、墓に向う婦人たちの心にあったのは、「イエスさまの遺体に油を塗ること」と「墓の石をどうやってどけるか」ということでした。しかし、墓につくと石はどけられ、遺体は消えていました。そして、白い衣を着た若者から「イエスさまは復活した。ガリラヤでお目にかかれる」と聞くのです。 それまでは目的としていたことがあり、またその困難さに頭を悩ませていたのですが、それらが新しい目的によって書き換えられる。それが復活の一つのメッセージなのでしょう。 もしかしたら、わたしたちの心にも重いフタがされているかもしれません。それはいかにも開けるのが困難であるかのようにも思えます。場合によっては、自分で封じてしまってもいるかもしれません。本当は自分の大切な一部であるはずなのに、それらをなかったことのようにして、深く沈めてしまっている過去、体験、出来事。 しかし、イエスさまは、墓の中に葬られているそれらに寄り添い、共に横たわっておられます。そして、イエスさまは墓石を突き破り、ガリラヤへと出て行かれます。わたしたちがイエスさまの復活に与るとは、重いフタとなっていた
4月19日読了時間: 2分
2026.3.29説教要約 Ⅰコリ 10:23-11:1 「他人の利益」 井上創牧師
パウロは10章において偶像礼拝、そしてそこで献げられた肉を避けるようにとコリント教会の人々に勧めています。しかし続く今日の箇所で、彼はその例外についても述べています。 まず、「市場で売られているものは食べてもいい」。これは全ての造られたものは神さまのものであるからであり、またその由来を確かめることが難しいからでもあるのでしょう。次に、「招かれた家で出されたものは食べる」。ここでパウロは、良心の問題を挙げています。つまり、招いて食事を整えてくれた相手の思いに対する感謝の気持ちがあるなら、いちいち詮索するものではないと言っているのでしょう。 最後に、「誰かが『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら食べてはならない」。これは教えてくれた相手の良心、つまり気遣いや真心に応えて食べないという選択をするようにという勧めだと言えるでしょう。 パウロはこれらの勧めの締めくくりに、「わたしはキリストに倣っている」と言います。イエス・キリストこそが、「こうでなければならない」という決まり事を、自分の中にある思いやりや感謝、そして他者からの真心によって変えてい
4月5日読了時間: 2分
2026.3.22説教要約 エフェソ 2:1-10「神の賜物」 井上創牧師
パウロは「あなたがたはかつては死んでいた」と言います。死が過去の出来事であるかのように言うのは、この死が肉体の死や社会的な死を意味しているのではないからでしょう。 「あやまちと罪のために死んでいた」ということは、ここで言われている罪とは、間違いや失敗などのあやまちと区別されているということでしょう。罪とは、聖書においては「的を外す」という意味です。ここから、罪とは神さまの御心から外れること、永遠なる存在から切り離されて存在しようとすること、つまり永遠の命を失うことだと理解されるようになったのです。 イエスさまの復活は、すべてのことが死で終わらないということ。どれほど絶望的な状況の中にあっても希望はあるのだということ。そして、すべてのことは死によって虚しくされないのだということをわたしたちに教えてくれています。 人間はイエスさまを十字架へと追いやり、神さまとの関係を完全に断ちました。しかし、それを超えてなおもわたしたちに手を伸ばす一方的な神さまの慈しみを、聖書は愛と呼びます。 わたしたちが「天の王座を継ぐ」とは、王である神さまの御心を世に体
4月5日読了時間: 2分
2026.3.15説教要約 使徒 16:16-40「わたしたちが歌うとき」 井上創牧師
占いとは、未来を見通そうとする行為です。人はこれから起こる出来事を予測することで、少しでも未来を自分に都合のいいように変えようとします。しかし、先のことを知るのは神さまだけです。明日のことを思い煩い、未来を自分の思い通りにしたいと願うわたしたちもまた、占いの霊による支配の下にあると言えるかもしれません。 パウロはこの霊と関わることで捕えられ、鞭打たれ、自由を奪われます。これは彼にとって不都合なことであったに違いありません。しかし、パウロたちは牢の中で祈り、賛美するのです。なぜ、わけがわからない、不条理のただ中にあって、パウロは賛美したのでしょうか。それは、どのようなときにもイエスさまが共にいてくださると信じていたからではないでしょうか。彼は自分にとって都合のいいことが起こったから、神さまを誉め讃えたのではないのです。いつもイエスさま一緒にいてくださる。そのことが嬉しくて賛美したのでしょう。 苦境の中、逃げる機会が与えられていながら、とどまって賛美するパウロたちの姿を見て、看守は洗礼へと導かれていきます。更には、歪められた世の権力構造にもくさび
3月22日読了時間: 2分
2026.3.8説教要約 ヨハネ 15:1-11「まことのぶどうの木」 井上創牧師
イエスさまは言いました。「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」。農夫である神さまはこのぶどうの枝の手入れをなさいます。実りの多い房を残して、痩せた房を切り取り、場合によっては枝ごと取り除きもします。しかし、枝は自分でどの房を大きくしようかと迷う必要はありません。どれを育てて、どれを切り取るかという判断は農夫の仕事です。わたしたちがすることは、ただ木につながっていることだけです。あとは自然と実りを得ることができるはずです。 ここでは、「イエスさまにつながる」ということと「愛にとどまる」ということが同じこととして語られます。この世界は神さまの愛で満ちています。木の根が水を吸い上げて木の全体にまでそれを巡らせるように。葉が日光から栄養を得て、それによって木の全体を生かすように、わたしたちはイエスさまを通して、世界に満ちる神さまの愛を全身で受けて生きることができるのです。 わたしたちが実りを得たいと願うのであれば、それが自分を立派に飾り立てるための実りであってはなりません。「互いに愛し合う」という神さまの言葉がわたしたちの内に響き渡
3月22日読了時間: 2分
2026.3.1説教要約 ルカ 19:1-10 「救いがこの家を訪れた」 井上創牧師
ザアカイは木に登ってまでもイエスさまを見たいと願いました。一つ前の物語、目の見えない人が周囲の制止を振り切ってイエスさまを求めて叫び続けた心情と重なるように思えます。ザアカイもまた自分の在り方に揺らぎを覚え、心の奥底では助けを求めていたのではないでしょうか。 ザアカイはイエスさまから「あなたの家に泊まりたい」と言われたときに喜びます。地位の高い人や高名な人が集落を訪れたとき、その人を泊めるのはその集落の最も豊かな家であったからです。徴税人としてみんなから嫌われていて彼は、しかし、そうして築いた富を用いてこそ貴人をもてなすことができるのだと誇りに思ってさえいたことでしょう。 しかし、ザアカイはその富を手放すことを誓います。そのきっかけとなったのは、「罪」を自覚したことでした。「あの人は罪人と共に食事をしている」。人々の言葉によってザアカイは気が付きます。自分は罪人であること、そして、救い主はその自分の隣に来てくださったこと。善い人間となったから、来てくださったのではない。罪人のまま、そのままのわたしの隣に寄り添ってくださる方がおられるのだという
3月8日読了時間: 2分
2026.2.15説教要約 ヨハネ 11:17-27「このことを信じるか」 井上創牧師
亡くなったラザロの姉妹であるマルタは、「死者が終わりの日に復活する」という教えを知っていました。「イエスさまが神さまに願うことは、かなえられる」ことも知っていました。おそらく、マリアも知っていたでしょう。しかし、実際に兄弟の死を前にしたとき、彼女たちの心は悲しみに支配されていました。そこでイエスさまはマルタに問うのです。「信じるか」と。 わたしたちは証拠を見せられたり、証明してもらえれば、安心して物事を受け入れることができます。しかし、不確かなことや、科学的ではないことについては懐疑的になってしまうのではないでしょうか。イエスさまが復活であり、命である。そのことを証明できるでしょうか。その証拠はあるでしょうか。 教会ではそう言われているということを「知っている」だけでは、わたしたちは諸々の誘惑、中でもその最たる死の前では無力なのです。「信じる」とは、強く願うこと、心から求めることです。パウロが言うように、「復活がないとしたら、わたしたちのなしていることは全て虚しい」と、不確かなことを不確かなままに、そこに自分を委ね、投げ出していく。それが「信
3月8日読了時間: 2分
2026.2.8説教要約 ネヘミヤ 2:11-20「神さまのご計画」 井上創牧師
ネヘミヤは故郷であるエルサレムの町が荒廃していることを聞いて悲しみました。かつて大国によって攻め滅ぼされたときのまま、城壁も門も壊れた状態で放置されているというのです。 ネヘミヤは仕えていた王から帰国の許可をもらい、更には復興のための支援を受けて、故郷へ向いました。彼はしかし、用心深く一人で町に入り、修復が必要な箇所の視察も夜の内に行いました。復興を良く思わない人たちが町の内外にいたからです。 いざ城壁の修復を始めてみると、ネヘミヤに与えられた知恵によって作業がはかどりもしましたが、それを上回るような数々の妨害が彼を悩ませました。陰口やデマ、兵隊を使った暴力もあれば、暗殺未遂もありました。ネヘミヤは、こういった困難に直面する度に神さまに祈っていました。神さまはその祈りに応えて、ネヘミヤを支え励ましてくださり、ついに城壁の修理は完成しました。これらはすべて神さまのご計画でした。 新約の時代、イエスさまは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせよう」と言いました。これは、御自身の肉体が十字架で苦しめられて死に至ること、後に復活することを示唆
3月8日読了時間: 2分
2026.2.1説教要約 エフェソ 2:11-22「平和のかなめ石」 井上創牧師
エフェソの教会でも、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の対立があったようです。手紙の著者とされるパウロは、こういった対立の解消のためには「キリスト」こそが鍵になると考えたのでしょう。 パウロはキリストが「肉において」「十字架を通して」、二つのものを一つにされると説きました。肉と罪とは不可分であるというのは、他の手紙にも記されるパウロの考え方です。罪とは、的外れ。神さまの御心から離れてしまうことを意味しています。わたしたち人間は、己の正しさに固執し、他者を顧みないことで、神さまの御心を忘れ、周囲を敵視してしまいます。 当時の律法も、お互いを大切にするようにという神さまの思いから離れ、規則と戒律によって敵意を生み出していました。 2章の3節と4節には、神さまの怒りを受けるべき者であったわたしたちを、肉をまとった御自分の身を裂いて贖い出してくださったのが神の子イエス・キリストだと言われています。このようなキリストの愛と平和のかなめ石によって、二つであったわたしたちは一つとされていくのではないでしょうか。 国籍や宗教・教派によって対立を煽ろうと
2月8日読了時間: 2分
2026.1.25説教要約 ヨハネ 7:14-24「イエスさまの教え」 井上創牧師
イエスさまの話を聞いた人々は驚いて言います。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」。当時の学問は高名な先生の弟子となって修めるものだったようです。そのため、誰をも師と仰いでいない無名のイエスさまは、学問を修めていないと思われたのです。 もちろん、イエスさまは神さまとして聖書のすべてのことに精通していたことだろうと思います。しかし、この一言は、もしかしたら聖書を知るためには必ずしも学問は必要ないのだという意味なのかもしれません。 イエスさまは「愛し合いなさい」と教え、弟子たちの足を洗われました。そして十字架の上でその身をささげてくださいました。神さまがわたしたち一人一人を大切に思っていてくださる愛が、イエスさまを通してわたしたちに届けられています。 わたしたちは聖書やキリスト教について学びたいという思いを持つかもしれません。しかし、それが自分の「知りたい」という欲求を満たそうとするものであれば、それは「自分の栄光を求める」ことなのではないでしょうか。そうして得た知識は、他者を裁く道具として用いら
2月1日読了時間: 2分
2026.1.18説教要約 ルカ 2:41-52「過越の三日後」 井上創牧師
イエスさまの十字架と復活の出来事は過越祭のときにエルサレムで起こりました。今回も同じように、過越祭のときにエルサレムで、まだ幼いイエスさまの身に起きた出来事です。 両親に連れられてエルサレムに登ってきたイエスさまでしたが、帰りの道で両親はイエスさまを見失ってしまいます。二人は慌てて、「いるであろう」と思っているところを探しますが見当たりません。もう戻らないのではないだろうかという予感が、焦りと悲しみを生み、後悔と絶望が二人を襲ったことでしょう。 しかし三日後、イエスさまはみつかります。おそらく、両親がこれまで見たことのないような姿で。それは、学者たちを呻らせるほどの知識と知恵を持った、子どもを、人を超越したような姿だったのでしょう。 イエスさまは自分は「父の家」にいると言います。これは、エルサレムの神殿が神さまの家だと言っているのではないでしょう。壊された神殿を三日で建て直すと言われたイエスさまは、御自身を罪と共に十字架で滅ぼし、三日目に復活されました。イエスさまこそが生ける神殿なのです。イエスさまのおられるところが、父なる神さまの家なのでし
1月26日読了時間: 2分
2026.1.11説教要約 ダニエル 6:11-24「今生きて働く神」 井上創牧師
昔々、ある国に王さまと三人の大臣がいました。王さまの一番のお気に入りはダニエルでした。他の二人の大臣はこれを妬んで、王さまに提案しました。「王さま、あなたは素晴らしい方です。これから30日の間、王さま以外の人や神を拝んだらライオンの穴に投げ込むという法律を作りましょう」。王さまは誉められるのが嬉しくて、喜んでその法律を作りました。 ダニエルは神さまを信じる人でした。毎日お祈りして神さまを賛美していました。大臣たちはそれを知っていたのです。法律が定まった後もダニエルはいつものようにお祈りして、神さまを誉め讃えていました。そこで大臣たちはダニエルを捕え、ライオンの穴に投げ込んでしまいました。 こんなことになると思っていなかった王さまは、驚き、嘆き悲しみました。眠れない長い夜が明けて、王さまは急いでライオンの穴に向い、呼びかけました。「ダニエル、あなたの神はあなたを救ってくれたか?」すると、穴の中から声が聞こえます。「神さまはわたしの無実を認めて、生かしてくださいました」。 ダニエルも不安だっただろうと思います。それでも、悩みながらも、従っていこ
1月18日読了時間: 2分
2026.1.4説教要約 ルカ 2:22-40「待ち望んだときが来た」 井上創牧師
クリスマスの出来事とは、わたしたちが当たり前と思っている世界に、神さまの思いが斜めに切り込んでくる出来事です。年を重ねて子を産むことができないと言われていたエリサベトの懐妊に始まり、無名の少女であったマリアに救い主の母となることが告げられます。イスラエルの王となる赤ん坊が家畜小屋に生まれ、そこには貧しい羊飼いたちが招かれます。 そのクリスマスの物語が続いています。二人の老人が救いのしるしを目にします。わたしたちの思いの中に、「年を取ると一線を引いて役目を終える」ということが当たり前になってはいないでしょうか。昨今のこの国においてはことさら、「得かどうか」「機能的かどうか」「役に立つかどうか」ということにばかり重きが置かれているように思えます。しかし、神さまはクリスマスにこの二人を用いられるのです。二人は、この赤ん坊が救い主なのだと証言をします。大切な役割です。 シメオンは「安らかに去る」ことを喜んでいるようです。この世界に絶望を抱いたり、自分の力に限界を超えていたから、「去る」ことを喜んでいるのではありません。シメオンは「救いを見た」ことで「
1月11日読了時間: 2分
2025.12.28説教要約 マタイ 2:13-23「御心が地でも行われますように」 井上創牧師
現在の研究では、預言書が書かれたのは、預言に記されている出来事よりも後の時代だと考えられています。つまり、預言者たちは過去に起こった出来事を、自分たちなりの神学的解釈を加えて、未来を予見しているかのようにして描いたのです。これは、今を生きる人々に、「より深く神さまのみ声に聞き従うものとなるように」との教訓を残すためでもありました。 預言者たちが伝えようとしている大きなテーマは二つ。一つは、神さまの思いから離れるときわたしたちにとって望ましくないことが起きるだろう、ということ。これは実際に聖書の民が体験した、国の滅亡と捕囚の出来事の原因が自分たちの不信仰であったという解釈に基づいています。 そして、もう一つのテーマは、神さまを信じて、依り頼む人たちは救われる、ということ。これも、古くは出エジプトの出来事に始まり、捕囚からの解放に至るまで、聖書の民が体験した救いの出来事に基づいています。 預言書には受け止めがたいようなことも語られています。しかし、かつて神さまがどんなときでも聖書の民と共にあったように、理解を超えた苦しい現実を生きるわたしたちと
1月4日読了時間: 2分
2025.12.21説教要約 マタイ 2:1-12「いちばん小さいもの」 井上創牧師
東方で星を見た占星術の学者たちは、ユダヤ人の王として救い主が生まれることを知りました。彼らはエルサレムへと向い、そこでヘロデ王に会いました。王が生まれるなら、王宮においてであろうと考えたらからでしょう。しかし、そこに新しい王はいませんでした。神さまの目は、このきらびやかな王宮や、立派な王座を見てはいなかったのです。 ヘロデ王は祭司長たちや律法学者たちに命じて、預言者の残した言葉を調べさせ、救い主がどこに生まれるかを突き止めました。それは小さな町ベツレヘムでした。預言には、この小さな町から指導者であり、イスラエルの牧者である者が現れるとありました。 これを聞いた学者たちは空を見上げます。東方で見て、王が生まれると知った途端に、学者たちの目は空ではなく王宮に向けられてしまったのでしょう。そして、「いちばん小さいもの」に救い主が宿ると聞いてもう一度、神さまが示してくださった星が輝く天に目を向けるようになったのです。 わたしたちも、神さまが見ておられる小さいものではなく、大きく立派なものに心を向けがちです。しかし、イエスさまはこの世界に小さいものと
1月4日読了時間: 2分
2025.12.14説教要約 マタイ 1:21-23「ともにおられる」 井上創牧師
イエスさまが生まれる前にヨセフのところに来た天使は、「子どもにイエスと名付けなさい」と言います。イエスとは、「神は救う」という意味です。当時のユダヤの人々は、支配者であるローマ帝国の圧政に苦しみ、律法に縛られて息苦しい生活をしていました。民は救いを求めていたのです。しかし、この救いは、武力によって支配者を倒すことや、律法やルールを取り払うということによって為されるのではありません。それでは、神さまは民をどのようにして救おうとなさっていたのでしょうか。 イエスさまにはもうひとつインマヌエルという呼び名が与えられます。意味は、「神は我々と共におられる」というものです。この呼び名を通して、神さまがわたしたちといつも一緒にいてくださることを、これから生まれる子どもは一生をかけて表していくことが告げられたのです。 どうにもならないと思えるような状況の中で、一人であると感じるとき、わたしたちはとてもつらい気持ちになります。そんなとき、一緒にいてくれる誰かがいるなら、それはとても心強いことです。ましてそれが、わたしたちをつくり、この世界に置かれた神さまであ
1月4日読了時間: 2分
2025.12.7説教要約 ルカ 1:39-56「主がおっしゃったこと」
マリアは何故エリサベトを訪ねたのでしょう。ひとつには、天使が告げたできごとを確かめたかったからかもしれません。実際にエリサベトが懐妊している姿を目にして、自分の身に起こることを確信したかったのでしょう。あるいは、マリアは不安だったのかもしれません。これから起こることを一人で受け止めることができず、自分と同じ境遇に置かれている人と一緒にいることで安心したかったのでしょう。 さて、もうひとつ。もしかしたらマリアはエリサベトのことが心配だったとは考えられないでしょうか。初産であるマリアも多くの心配を抱えていたことでしょう。しかし、初産であり高齢出産でもあるエリサベトを思ったとき、マリアはいても立ってもいられなくなったのではないでしょうか。 マリアの讃歌は、前半部分で一人の少女である自分が見出されたこと、魂が救われ、満たされたことを喜び歌っています。そして、後半部分は神さまの愛と平和の御業がこの世界に及んでいく様子を歌います。霊は人を導く力を持ちます。生きる意味を与えられ魂が満たされたマリアは、霊の導くままにエリサベトのもとへと平和の使者として遣わされ
2025年12月18日読了時間: 2分
2025.11.30説教要約 ルカ 1:26-3「お言葉どおり、この身に成りますように」
聖母と呼ばれるマリアは、特別な信仰や力を持っていたのでしょうか。聖書ではまず、何でもない「おとめ」としてマリアを紹介しています。これは、マリアがわたしたちと同じ一人の信仰者であり、そのモデルとなっているということなのでしょう。 天使ガブリエルはマリアに「主があなたと共におられる」と語りかけます。マリアは戸惑い、考え込みます。天使は続けて、神が生まれてくるイエスにダビデの王座をくださると告げます。マリアは「わたしは男の人を知りません」と自分の身の上についての懸念を明かします。 ここまでで、天使は神さまの御心を語り、マリアは自分自身のことに気持ちを向けていることがわかってきます。わたしたちも、例え今この時に神さまの御業が自分に臨むとしても、素直に天に目を向けることの難しい者なのではないでしょうか。 天使は三度目には、マリアの身近にあるできごとについて触れます。エリサベトの懐妊は人の思いを超えた業でしたが、そのことはマリアの現実の生活にも近いところで起こっていることでした。そのため、マリアは「神にはできないことは何ひとつない」という天使の言葉に対して
2025年12月18日読了時間: 2分
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