パウロは自分を含めた「わたしたち」を「強い者」と呼びます。パウロの強さは、若い頃から学び続けて蓄えてきた知識でも、築いてきた人脈でも、家柄でもなく、何も持たないこと。キリストにすべてを委ねて生きていることそのものを。パウロは誇りとしていました。パウロと同じように信仰に生きる者は、自分が赦されて愛されているという喜びの中に安住すること(義認)を望みません。裁き合わず、侮り合わず、共に天を見上げることに努めようとする(聖化)のです。
5節の「忍耐」とは、困難の中で嵐が過ぎ去るまで我慢してうずくまっていることではありません。この言葉の原語の意味はもっと能動的なイメージを持っています。じっとしているのではなくて、動き続けている。ずっと動き続けることは、なかなかに苦しいことです。しかし、ゴールを目指して、終わりの時を待ち望みながら耐えて動き続ける。それが忍耐です。
「慰め」という言葉は、そばに招き寄せることを意味しています。共に立ち続けるわたしたちの絶対の味方。わたしたちのために神の子であることを捨てて、人間へと変わってくださった十字架のイエスさまこそがわたしたちの慰めです。
わたしたちも自分の満足を求めるだけではなく、隣人のために変わること、変わり続けることができると信じたいと思います。その先にこそ和解の食卓、心を合せ声を揃えて神さまを讃える希望の礼拝の姿が見えてくるのではないでしょうか。
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