ローマの教会において、ユダヤ人キリスト者は律法を知らない異邦人キリスト者を批判して裁き、異邦人キリスト者はユダヤ人キリスト者を「信じて委ねることのできない信仰の弱い者」と侮っていました。このような分裂に心を痛めたパウロは、食物規定や安息日を守る者も、守らずに自由にする者も、神さまのためにそうしているということ。それぞれの生き方や在り方によってキリストを現すのだということを説きました。
終わりの時、わたしたちは神さまの前に立ち、隣人の不十分であったところを申し述べるのではなく、ただ自分自身のことを話すのです。しかも、わたしたちの為した諸々の罪の結果については、既にキリストにおいて清算されていることから、わたしたちが口にするのは、ただ聖霊によって導かれ支えられながらこの身をもって為した「神さまのわざ」を誉め讃えることだけなのでしょう。
わたしたちが他者を侮るのは、「相手よりも自分の方が優れている」、あるいは「相手よりも自分の方が苦労している」といった比較をする場合ではないでしょうか。相手の方が不十分だという裁きが侮りを生むのでしょう。わたしたちは一人一人がそれぞれの年代や環境によって違う課題に向かい合い、違う苦労を背負って生きています。わたしたちがその苦難や忍耐や、ときには死を通してさえ、支え導いてくださる神さまの御力を証していくのだと、信じ合うことができますように。
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