パウロはこの手紙を「ところどころかなり思い切って書いた」と言います。それは読者に「神さまがわたしたちを愛してくださっている」という記憶を新たにしてもらうためでした。
わたしたちは、ただ聞いたり、読んだりするだけでは、それを忘れてしまうことがあります。しかし、衝撃的な体験はなかなか忘れないものです。ショックな出来事だから印象に強く残るというだけではありません。体験したことは脳が忘れても、体で覚えているということがあるのでしょう。
パウロは手紙の中で、「皆が罪人」と言います。更には、「被造物全体が罪に呻いている」とも。救われようと懸命になっている人たちに「行いは不必要」と言います。選ばれた神の民だけではなく「異邦人も救われる」と言います。正しく裁く方が「罪を見逃すことが義しいと宣言した」と告げます。異邦人伝道は「イスラエルに妬みを起こして救うため」だと解きます。どれも驚くべきことです。パウロは敢えて過激な言葉を使うことで読者に忘れ得ぬ衝撃を与えようとしているのではないでしょうか。
19節にあるように神さまはパウロの「思い切った言葉」だけではなく、「行い」を通しても働かれます。パウロが霊に力づけられ宣教の旅に出たように、わたしたちもキリストの愛を知らない人たちのところに出向き、衝撃的な御言葉の光をあびる体験を共にすることで、忘れることのない恵みを受けることができたらと願うのです。
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