パウロは、互いに裁き合わずそれぞれの在り方で神さまのために働くことを勧めた上で、13節に「むしろ」と続けます。「各々があるがままで神さまに認められていること」から、更なる発展へとわたしたちを導こうとしているのではないでしょうか。
わたしたちは何を食べてもいいのです。しかし、共に食べる者たちがその食卓において、違和感や、不信感、場合によっては怒りを覚えてしまうとすれば、それはわたしたちが望むところではないはずです。招いた者の心の内に、裁きの罪を引き起こし、その人を滅びに導くことを、わたしたちは避けなければなりません。「そしりの種」は、わたしの尊厳や評判を損ねるかもしれませんが、それだけではなく「そしる者」にとって滅びの道でもあります。わたしたちが自由を許されていることに喜ぶあまり、隣人へのなすべき配慮を怠るのであれば、そこにキリストの愛があると言えるでしょうか。「神が人となった」キリストの愛に倣い、わたしたちも隣人のために変化していきましょう。
わたしたちのあらゆる行いには決断が伴います。それが他者への愛に基づいていると疑いなく言えるのであれば幸いです。もしかしたら、どこか心にやましさを感じていたり、配慮が不十分であるように思うこともあるかもしれません。しかし、それで進めなくなるくらいなら、罪の結果をすべてキリストに委ねて、闇を光に変えてくださる聖霊の働きを信じて、決心したそのままに歩み出していけたらと願うのです。
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