人によっては、地上で生きる日々は苦しみと虚しさに満ち、いっそ死んだ方がましだとさえ思えるときもあるかもしれません。シメオンは幼いイエスさまと出会い「今こそ安らかに世を去ることができる」と喜びました。シメオンは年を重ねて生きなければならないことに疲れを感じていたから、去ることを喜んだのでしょうか。
30節に「この目で救いを見たからです」とあります。救いを見た。だからこそ、安らかに去ることができるとシメオンは喜ぶのです。しかし、この救いとは単純に困難な状況が改善したり、問題が解決に導かれるといった対処療法的なものではありませんでした。むしろ、イエスさまによって人は躓いたり、転んだり、刺し貫かれたりもすることになるのです。これは、わたしたちの心にある思いがあらわにされるためでした。
たとえマリアとヨセフのように律法の規定通りに生きようとしても、シメオンのように正しい人で信仰に篤いと言われてみても、わたしたちの心の奥底には、誰にも言えないような自分勝手な思いが隠されているのではないでしょうか。その罪の姿が十字架を前にして明らかなものとされるのです。
そして、神さまはそういうわたしたちをそのままにはしておかれません。倒した者は立ち上がらせることがおできになる方は、古い自分に生きるわたしたちを去らせて、他者に仕える新たな命に生きる者へとよみがえらせてくださるのです。
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