相手に勝ろうとするとき、分裂が起こります。どちらが正しいか、どちらが優れているかという議論は、真の和解の道にはなり得ないのです。パウロは、だからこそ、まず和解を説くに当たって、わたしたちの罪の姿を浮き彫りにします。
全能なる神さまを前にしたときに、わたしたちは皆等しく、自分が愚かで、弱い存在であることを認識することでしょう。それは、キリスト教やユダヤ教に限ったことではないはずです。山や川、雲や雷、太陽や月を見て、そこに何らかの神性を感じるアニミズム(自然信仰)にも、自分より大きな力を畏れる感覚は共通しているはずです。パウロはおそらく、宗教においても優劣をつけることを望まなかったのでしょう。どの宗教においても、神的な存在を認識し、畏れることが基本となっていること。そして、人間がそういった存在を前に無力であり、無知であることは同じなのだと考えたのでしょう。
神さまの創造のわざの詳細、その全てを知ることは人間にはできません。しかし、それを知っているかのようにふるまうことで、わたしたちは自ら神に代わる者となり、自分を偶像化してしまうのです。勝ち誇ることではなく、まず神さまを前に自分は罪ある者であると認めること。互いがそのような存在であることを認めることによって、わたしたちの前には和解の道が開かれるのです。わたしたちの前で小さくなり、謙りの十字架への道を歩まれたキリストに従っていきましょう。
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