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2026.4.19説教要約 Ⅰコリ 15:12-22「復活の初穂」  井上創牧師

5月24日
読了時間: 2分

 「もしも死者の復活がなければ」キリストも復活しなかったはずではないかと、パウロは一つの問いを立てました。これはつまり、死が神さまの力を凌駕して、完全に勝利を収めるならば、という意味です。もしそうなれば、教会の宣教は全て無駄になってしまいます。

 教会の宣教によって人々に伝えたいメッセージとは、「どんなときも神さまは一緒にいてくれる」「神さまが必ず助けてくれる」「だから希望を捨てないで」、といったところでしょう。これらはしかし、死が勝利すれば、「死の向こう側までは神さまは来てくれない」「死んだら神さまは助けてくれない」「死はわたしたちに絶望をもたらす」という虚しい言葉になるでしょう。神さまへの信頼を失い、その関係を疑うことを「罪」と呼ぶならば、「死者の復活はない」と告白することは、まさに罪の中に置かれているということになるわけです。

 アダムという一人の人が、知恵の木の実を食すことで神さまを疑うようになり、身の内に罪を得たと聖書は語ります。神さまはしかし、人をそのままで置こうとはなさいませんでした。神さまのシナリオは、信頼が取り戻され、人が真に生きる者となるという、永遠の命によって完結するものでした。

 死者の復活を信じるとは、「あなたをそのままにはしておかない」という神さまの愛のご計画を信じ、その中で平安を得るということなのでしょう。

 
 
 

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