パウロが異邦人伝道に積極的であったのは、一つには、異邦人が救われて欲しいという思いがあったからです。加えて、それによってユダヤ人たちが「ねたみ」を起こしてほしいとも彼は願っていました。相手の持っているものをうらやましく思うことが「ねたみ」です。異邦人の救われる姿を見て、ユダヤ人たちにも救いを求めてほしいとパウロは願っていたのです。捨てられたユダヤの民が再び戻ってくることの喜びは、イエスさまが語られた「迷い出た羊」や「放蕩息子」のたとえ話で語られた喜びと同じものなのではないでしょうか。
パウロはローマの教会の異邦人キリスト者たちが、救われたことを自分たちの手柄であるかのように誇っていることを諫めます。何かを成し遂げることで救われるという考え方によって、ユダヤの民はつまずきました。同じように、異邦人も自分たちが選ばれたのは優れたところがあったから、善いことをしたからだと思うようになれば、それはつまずきだと言えるでしょう。
根があるから枝が生き、実りが生まれるというパウロの接ぎ木のたとえ話は、イエスさまの「ぶどうの木」のたとえ話と重なるように思えます。貧しい枝を折って焼く厳しい管理人を恐れて、自分で何らかの実りを得ようともがくのではなく、幹につながってさえいれば、ぶどうの枝はたくさんの実を結びます。同じように、わたしたちは慈しみに留まりさえすれば、豊かな実りを生み出すことができるのでしょう。
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