献金の際、わたしたちは「感謝と献身の証として自分自身をおささげします」と祈ります。これは、献金における心構えに留まらず、礼拝そのものが「献身」なのだとパウロは言います。わたしたちは、献金を通して、新たな一週間の生活が神さまの御心に沿ったものとなるようにという「決意」を確かなものとして思い起こします。日曜日の朝に礼拝を守ることによって、一週間すべてが神さまにささげられた「礼拝」となるのです。
このような礼拝の日々の中で、わたしたちが迷うときに、ひとつの道標としたいのは「世に倣ってはならない」という言葉でしょう。世の理においては、私個人や身内を優先し、敵対者や危害を加える者を排除し、多数派に属することを好み、「神」は自分の願いを聞くために存在していると考えます。しかし、キリスト者は、自分と主義や考え方の異なる者をも隣人とし、敵を愛し、小さな門を探してはくぐり、「神」の御心をなすために自分が存在していると考えるのです。
そのように生きるために、神さまはわたしたちにそれぞれ違った賜物を与えてくださっています。それが何であるのか、自分が何でもできると背負い込むのではなく、慎み深く見極めて用いていくことで、わたしたちはこの群れが互いを支え合う体のようなものだということに気が付きます。それぞれの一週間の日々の中で、みずからをささげることによって、わたしたちはひとつのキリストの体(教会)となることができるのです。
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