「行いによって救われる」ことに固執するイスラエルの頑なさによって、かえって「信仰によってのみ救われる」ことが明確になりました。イスラエルの頑なさは、全ての人が救いに至るための神さまのご計画であったとパウロは言います。28節に「あたながたのために」とあります。イスラエルの不従順のおかげで、わたしたちには救いの道が示されました。つまり、異邦人全てが救われたならば、それ以降はイスラエルが頑なにされている必要はなくなるわけです。
かつて不従順だったわたしたちが今は憐れみを受けています。同じように、今は不従順にされているイスラエルも憐れみを受けるのです。それでは、その時はいつ来るのか。パウロは、それが「今」だと言います。まだ全ての異邦人に救いがもたらされていないのに、なぜパウロは「今」イスラエルが憐れみを受けると言うのでしょうか。そこにはパウロ独特の終末の捉え方があるように思えます。
「必ずそうなる」と強く信じるならば、それが果たされることを前提にわたしたちは直ぐにでも動き出すことができます。たとえば、明日は晴れると信じて山登りの準備をしたり、家族に食材の買い物を頼んで直ぐに料理の準備を始めたりできるわけです。同じように、神さまが全ての人を救われるというご計画を信じるならば、誰もが今は不従順であっても憐れみを受けることができると信じて、互いの存在を喜ぶことができるのです。
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