9章以降、パウロがテーマとして語っているのは、「宣教が異邦人へと向かって行くということは、イスラエル(ユダヤ人)は神さまから見捨てられてしまったのか」ということでした。パウロは自分の肉による同胞への断ち切れぬ情のため、あるいは、神さまが民の選別に失敗したり、初志を曲げる方ではないと反駁するため、ユダヤ人が御心に背くのは神さまのご計画だったのだと主張します。
このため、列王記上19章の預言者エリヤの話を引用します。異教の神であるバアルの預言者を一掃したエリヤは、王妃に命を狙われます。味方が誰もいないような状況の中で絶望的になるエリヤに、神さまは御自分の計画によってまだ7千人もの信じる者たちを残していたと告げるのです。
パウロ自身も、伝道旅行で大きな挫折を味わった後に、コリントで「この町にはわたしの民が大勢いる」と神さまに励まされたことがありました。(使徒言行録18章)
教会は神さまのご計画の中を歩むならば、やはりパウロやエリヤと同じような試練を味わうこともあるのでしょう。しかし、明も暗も、その全ての歴史の中に神さまの御心が働いていると信じることができるならば、わたしたちはたとえ絶望的な状況の中に置かれているとしても、この後に明かされる神さまの驚くべき御業を、希望をもって待ち望むことができるのではないでしょうか。
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