パウロは10章の2節で、イスラエルは神さまに熱心に仕えてはいたが、「正しい認識に基づいていなかった」と言います。この「正しい認識」とは、「こうでなければならない」といった、律法における定まった基準のようなものについて言っているのではないでしょう。神さまの言葉である律法を、そのように一つの尺度として用いようとするところに、人間の義(=罪)があります。もしわたしたちが何かについて「これが正しい」と言うならば、もうそれはパウロの言うところの「正しい認識」からは逸れてしまっているのでしょう。
わたしたちはもしかしたら、自分が熱心に思いを注いでいることについて、少し疑いを持った方がいいのかもしれません。自分の思いにだけ凝り固まっていないか。神さまの思いを聞く姿勢を失っていないか。改めて問い直してみましょう。
10章の3節には、「正しい認識」とは、神さまの義を知り、それに従うことだと書かれています。神さまの義は、キリストの十字架に表されています。十字架は、神さまに背き逆らい、神さまを捨てようとした者たちをも赦し、救おうとされる神さまの強い思いが結実したものです。この神さまの思いを信じて受け止めるところに「正しい認識」が生まれます。「あなたはそれほどまでに愛されていることを知って欲しい」という思いが届くようにと、イスラエルには律法が与えられました。だから律法の目標はキリストの十字架の愛なのです。
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