「水を飲ませてほしい」。イエスさまは小さく弱く、乞う者としてわたしたちのところに来てくださいました。わたしたちは仕えるべき他者が与えられた時、あるいは労力を伴う奉仕の道を示された時、このサマリアの女性のように「なぜわたしに声をかけるのですか」と問いたくなるかもしれません。わたしたちが問い、イエスさまが答える。その問答の果てに、わたしたちは気が付くのでしょう。わたしが水を差しだしたようでいて、その実、わたしの渇きが潤されていたことに。
旧約聖書において魂の渇きは、神さまから与えられた命の用い方を見失うことを意味しています。なぜこの地上に生まれ、なぜこの日を生きているのか。その問いの答えに飢えているわたしたちは、十字架の上で「渇く」と言ったイエスさまにこの身を差し出すことによって満たされるのです。永遠の命に至る水は、天から降り注ぐのではありません。イエスさまとの交わりを通して、あなたの内から愛の泉が湧き上がってくるのです。
わたしたちの教会は、1人1人の信仰に基づいた決断によって作り上げられてきました。麦の会やティータイム、ガーデニングなど。イエスさまに与えられた愛がそれぞれの内であふれ出して生み出された様々な泉の軌跡が記念誌に描かれています。互いに仕え合う群れとして潤し合いながら、またこの諏訪、北杜の地にまでこの水があふれ出すようにと願って、これからもわたしたちの教会は歩んでいくのです。
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