31節、パウロはローマの教会における「敵」の存在を意識しているように思えます。その敵は神の子たちを訴えると33節にあります。教会の外からか、あるいは内側においてなのかはわかりません。「わたしを悪人として、罪人として訴えようとする誰かがいる」。教会には恐れと疑いが広がっていたのでしょう。
パウロはこのようなときに、「疑うのをやめよう」とは言いませんでした。そうではなく、「あなたの味方である神さまを信じなさい」と言うのです。人がお互いを見ようとすれば、欠点や疑わしさに目が向き、軋轢が生まれることもあるでしょう。しかし、神さまを見ればどうでしょうか。
神さまは、イエス・キリストの執り成しのゆえに、わたしたちを赦して義としてくださるのです。わたしたちの義しさを、神さまが知っていてくださるのならば。そして、何があってもその手を離さずに味方でいてくださるのであれば、どのような訴えも恐れることはないはずです。
艱難、苦しみ、迫害、飢えの最中にあっても、死がわたしたちを脅かしても、命に縋り付こうとしてもがくときも、天使のような奇跡的な存在や出来事に心が奪われそうになるときも、あらゆる被造物の力は、それら全てを造られた方に勝るものではありません。「神さまがわたしを望んで造られた」。キリストの十字架と復活によって示されたこの愛が、どこまでもわたしたちの味方なのです。
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