パウロは兄弟たちを思い、心を痛めています。この兄弟たちのためなら、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいというほどの決心です。キリストによって人生を大きく変えられたパウロがこう言うほどですから余程のことです。それほどまでにパウロが思いを募らせているこの兄弟たちとは、おそらく、キリストの教会に連なる者たちではなく、かつてパウロが所属していたユダヤの同胞たちのことでしょう。この人たちがキリストに出会って、自分のように導かれていくことを願って、パウロは心を痛めているのでしょう。しかし、「キリストから離され、神から見捨てられてもいい」というのは少し言い過ぎのような気もします。
パウロはこの痛みについて、良心が証ししている確かなことだと言っています。この良心とは善悪を判断する心ではありません。1節にあるように、真実を語り、偽りを言わないことが良心の働きです。しかし、わたしたちの心は建前や常識・慣習、他者への配慮などによって覆われていて、なかなか真実の姿を表そうとしません。教会においても、「神さまが一番」と言わなければならないような雰囲気があって本音が言えないということがあるかもしれません。この露わにならない良心を励ますように、聖霊は寄り添い、代わってうめき声をあげてくれます。そうやって聖霊によって真っ直ぐな心の痛みを打ち明け合い、互いに受け入れ、赦し合うところに教会が作られていくのです。
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