旧約聖書の歴史は、神さまと人、人と人とのすれ違いの歴史だったとも言えます。わたしたちは自己神格化、自己正当化の罪の末に、互いに通じ合えずに苦しむこととなったのです。特に、知恵の木の実から得た言語や文字は、それらを巧みに用いようとすればするほど、わたしたちの心の奥にある「思い」を覆い隠してしまいました。
イエスさまは、律法を否定しようとされたのではなく、「神さまの思いはどこにあるのか」ということを伝えようとしておられたのではないでしょうか。そして、最終的にはその身を十字架の上で捧げることによって、神さまの思いが「愛」であることをお示しになりました(5:8)。
聖書もまた文字によって書かれているために、残念ながら解釈の違いから教会は分裂を繰り返してきました。しかし、わたしたちが共有できる唯一の接点は、十字架に示された「神さまの愛」であるはずです。そこから、発せられる霊の力によって、わたしたちはもう一度つながりを取り戻していくことができるのではないでしょうか。
パウロが「兄弟たち」と呼びかけるとき、それはローマ教会のユダヤ人キリスト者を指しているように読めますが、同じように「文字に従う古い生き方」に囚われていたわたしたちにも呼びかけているのではないでしょうか。わたしたちもまた、霊(愛)に従う生き方で他者に仕えるようにと勧められているのです。
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