わたしたち被造物はみな虚無に服している、とパウロは言います。この虚無とは、行く末が滅びであるということですが、しかしわたしたちにはまた希望も与えられています。それは、神さまの義を受け継いで「神の子」とされることです。この義とは、わたしたちが自力に依らず、一方的な創造主の恵みによって救われ、用いられるということを意味しています。
わたしたちはこの世界に、訳も分からぬままに生まれてきて、何とか自分の生きる意味、存在の理由を生み出そうとします。しかし、そうやって肉の思いで作り出した理由は、死によって虚しく散ってしまうのでしょう。創り主との関係が歪められているとき、わたしたちと神さまをつなぐ聖霊は軋み、呻き声をあげるのです。わたしたちがこの世界に在る理由は、造られた方のみがご存知であること。そして、それはわたしたちの想像をはるかに超えるものであることを、キリストの十字架と復活は伝えてくれています。わたしたちの希望とは、神さまがこの命を意味あるものとして生み出し、愛して、その罪を赦し、この日を価値ある者として生きるようにと願ってくださっているということなのでしょう。
他の被造物が「神の子たちの現れる」のを待っているとは、御心のままに用いられ生きようというわたしたちと同じように、たとえば教会の建物や土地も、御業のために用いられることを神さまから望まれているということなのではないでしょうか、
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