パウロは人間について、「霊と肉」という二つの性質を持つ存在として語ります。しかし、単純に霊は善いものであり、肉は悪いものであると分類してしまうことは、「この悪のはびこる地上の世界を捨てて、善に満ちた天の世界に旅立とう」という、ある種のカルト的な結論を導き出しかねません。
もしわたしたちの肉が、ただ悪いものであるならば、なぜ今なお生かされたままであるのでしょうか。また、キリストは霊的な存在でありながら、なぜその身に肉をまとおうとなさったのでしょうか。それは、神さま自らが「肉である己」を用いる生き方をわたしたちに示すためではなかったでしょうか。神さまはわたしたちの肉をも愛そうとしてくださっているのです。
律法に従う古い生き方はわたしたちを罪と死に導いていきますが、それは律法自体が悪いものであるからではありません。神さまが律法や聖書の言葉を通してわたしたちに伝えようとした「互いを愛し合う」という目的を忘れて、ただ文字通りに聖書の言葉だけを聞こうとするとき、わたしたちの中の罪が機会を得て、自己保身と正当化が起こります。
このようにして、律法は「わたしたちに自分自身の肉が逃れられない罪の中にあることを知らせる」という働きを担っていたことがわかります。神さまは肉であるわたしたちの五体にも、ご自身の義の道具としての役割を与え、その愛のわざのために用いてくださるお方なのです。
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