ユダヤの人々は律法を守るという行いによって、神さまから義と認められようとしましたが、パウロはアブラハムを引き合いに出しながら、誰でもキリストを信じる信仰によって義とされると説きました。キリストを信じるとは、神さまがキリストの十字架の血によって、わたしたちの罪を贖ってくださったことを信じるということです。それによって、わたしたちは神さまとの間に平和な関係を取り戻すことができるようになりました。信じるならば、わたしたちの魂は永遠なる存在と共にあるという希望を得ることができるとパウロは言います。
パウロにとってその希望は誇りであり、更には苦難もまた誇りなのです。この苦難は神さまとの関係に生きるからこそ受ける苦難です。人間の側からの不信によって崩されてしまった関係を、神さまはイエス・キリストの十字架の苦難を通して、和解へと導いてくださいました。
今、世界は分断と分裂の危機に瀕しています。また、わたしたちの日常の中にも、壊れてしまった関係を見ることがあります。おそらく和解の道を行く者は、キリストと同じ苦難を味わうことになることでしょう。キリストは神と同じ身分を捨て、十字架の死に至るまで従順であり続けました。そして、神さまはそういうイエス・キリストを復活させてくださったのです。神さまが約束を成就される方であると信じるならば、キリストと同じ苦難の道を歩むことは希望に生きることでもあるのです。
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