世の中では、何か悪いことをするのが「罪」だと言われています。しかし、パウロが言う「罪の奴隷」とは、わたしたちが悪い行いや考えに執着しているということではないようです。それが良いことであれ、悪いことであれ、わたしたちが自分の思いに囚われてしまっていること。特に、律法のような生活の決まり事や常識のようなもので自分や他人を縛り付けて、身動きができなくなってしまっていることを、「罪の奴隷」と呼んでいるのでしょう。
それでは、その罪から解放されて「義」に仕えるようになるとはどういうことなのでしょうか。パウロによれば神さまの義とは、「イエス・キリストの十字架の死と引き換えに、わたしたちの罪を見逃すこと」(3章)でした。何が正解なのか、効果的で効率的なのかという考えから離れること。それは、間違った愚かなことのようにも見えます。しかし、はらわたが引き裂かれるような憐れみの心によって、罪人であるわたしたちのために、全知全能の神さまがその命を与えてくださる。このことに「愛」が示されているとパウロは言います。(5章)
聖なる生活とは、俗世間から切り離された清廉潔白な生活ではありません。むしろ、律法によって塗りたくられた白い墓のような正しさから飛び出して、赦して愛する、義に仕える生き方こそが、神さまが御自分の手元に引き上げて喜んでくださる、わたしたちの目指す聖なる生活なのではないでしょうか。
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