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2024.2.4説教要約 ローマ 3:1-20 「罪の自覚」

  • 2024年9月11日
  • 読了時間: 2分

わたしたちは苦しみや思い煩いに捉えられたり、存在の危機を感じたとき、その理不尽さに腹を立てたり、「なぜわたしだけがこんな目に」と恨み言を述べたりすることがあるのではないでしょうか。それは「わたしの人生はこうであるはずがない」と、まるで人生が自分の思い通りになるかのような考えに支配されてしまっているということでもあるのでしょう。

 旧約聖書のヨブもまた、苦難の中で自分の正しさを主張します。「律法を守ってきたわたしがこんな目に遭うはずがない」と。そして、神さまから叱られるのです。「わたしが世界を創造したとき、お前はどこにいたのか」。神さまは、今も働き、創造のわざを続けておられ、誰の人生をもその御手の内に置いてくださっています。それなのに、わたしたちはその御業を疑い、自分の考えていることの方が相応しいと思ってしまうのです。

 委ねられた神さまの言葉である律法を盾に、その実行を義として、自分の正しさを押し通そうとしたユダヤ人たちの罪の姿は、理不尽さを前にして「わたしにそれは相応しくない」と神さまに言い募るわたしたちの罪の姿と重なるように思います。

ところで、このわたしたちの罪はただ裁かれて滅びへと向うのでしょうか。わたしたちはこの罪の向う先が十字架であり、貴いキリストの血による贖いであり、復活の栄光であることを知っています。だから恐れずに、自分の内にしっかりと罪の自覚を持ち続けることができればと願うのです。

 
 
 

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