この世界に生きている実感、自我の確立、自己の存在の証明。こうした「魂の救済」は昔から人間のテーマでした。旧約の時代、人々は永遠なる神さまとつながりを持つことで、子々孫々、未来永劫、神さまと共に自分自身も物語の一部として語り継がれていくことを願いました。義しい者として永遠なる存在の中に生き続けることで魂が救済されると考えたのです。このため、「語り継ぐための器」としての共同体が存続していくことが重要でした。ユダヤの人々は割礼や律法によってこの共同体を何とか保持しようとしていたのです。
しかし、パウロは、アブラハムがただ信仰によって義とされたことを思い起こします。そして、神さまがわたしたちを見捨てない、忘れないということ。その約束が必ず守られるということを、死を越えていくキリストによって示し、これを信じる者たちを憐れみによって義しい者として御自分の内に結びつけてくださるのだと説きました。こうして「律法の実行なしに」魂の救済が成し遂げられると彼は考えたのです。
アブラハムはユダヤの人々にとって民族の始まりの人物であり、父でしたが、信じることで魂をつなぎ止めてもらえた最初の一人として、わたしたち人類全ての父でもあるのです。このアブラハムが信じたのが、存在しないものさえ存在させる神さまです。ここに存在するわたしたちもまた、神さまから「在るように」と望まれている一人でもあるのです。
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