パウロは先に「神の義」はキリストを信じる信仰によって与えられると説きました。そして次に、その具体例として、旧約の時代に生きた、ユダヤ民族の父であるアブラハムの物語をわたしたちに思い出させようとしています。
アブラハムはかつて「あなたの子孫は天の星のようになる(増える)」と神さまから約束をしてもらい、それを信じました。創世記の15章に、そのアブラハムの信仰を神さまが義としてくださったとあります。その後、17章においてアブラハムは神さまを信じる証しとして割礼を受けるのです。
パウロが言いたいのは、この順番です。アブラハムは神さまを信じて義とされ、その後に割礼を受けたのです。割礼を受けたから義とされたわけではないのです。この「割礼」という言葉によって表されているのは、「信仰」に対して、わたしたちの「行い」全般だと言うことができるでしょう。ここでもパウロは「行い」ではなく「信仰」によって義とされるという点において、律法の行いを重要視するユダヤ人も、律法を知らない異邦人も同じなのだと説いているのです。
ただし、だから「行い」を怠ってもいいということではありません。働く者には当然報酬が支払われます。「割礼」が神さまを信じる証しであったように、わたしたちの「行い」は神さまを証しするためのものであり、対価として支払われる報酬は、「御国に生きる喜びと恵み」なのです。
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