この手紙は「ユダヤ人と名乗る」人々に向けて書かれたものです。しかし、ローマの教会におけるユダヤ人キリスト者たちの罪とわたしたちの罪は同じものであるように思えます。それは、自分を棚に上げて他者を裁くという罪です。教えを守る自分を誇りとして、まるで案内人であり、導き手であり、教師であるかのように振る舞うのです。
イエスさまはしかし、自分を誇りとせずに、謙って弟子たちの足を洗い、他者に仕える者となられました。その姿勢を貫くことによって、律法に従う自分を誇るのではなく、隣人を大切にするようにと教える律法そのものが、そしてそれを与えてくださった神さまこそが栄誉を受けるべきなのだということを示してくださったのです。
今日の箇所で用いられている「割礼」は、ユダヤの人々にとっては体に刻みつけられた救いの印でした。しかし、この割礼を受けていなくとも、律法の要求するところを行えば、「霊」によって心に割礼が施されるのです。ここで言われている「割礼」を「洗礼」と読み替えればどうでしょうか。わたしたち洗礼を受けたキリスト者も、自らの身に水を浴びることによって(あるいは、水に沈むことによって)、その肉体には洗礼が施されています。しかし、それだけではなく、イエス・キリストの贖いと赦しの恵みを忘れずに生きるなら、誰でも霊によって洗礼を受けてキリストに結ばれた者となることができるのです。
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