説教要約 マタイ28:16-20 2023.9.30
「新しい約束」 井上創牧師
「全ての人を弟子とせよ」というイエスさまの遺言のようなこの言葉は、わたしたちが背負うには過大なものであるかのように思えます。しかし、イエスさまの弟子とはどのようなものなのでしょうか。忠実で信仰に満ちていたでしょうか。そうではありません。イエスさまが捕らえられれば逃げ去り、復活したイエスさまに出会ってさえ疑いを捨てられない人たちでした。この人たちを、ただひたすらに愛するが故に、イエスさまは「弟子」と呼んだのです。
宣教の歴史を紐解くと、それは神さまの言葉を語り伝える「伝道」に終始するものではありませんでした。人々の身体を癒す「医療」や、生きていくための知恵や業を授ける「教育」なども宣教師たちは担ってきたのです。
洗礼とは単に儀式のことでしょうか。洗礼において大切なのは、その時にイエスさまが体験されたことをこの身に受けること。すなわち、天が開け、霊が注がれ「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉を聞くことです。癒された人、教育を施された人たちが、「わたしは愛されている」「生まれたことが幸せだ」と思ってくれるなら。それはもう、イエスさまと同じ体験をしたと言えるのではないでしょうか。
すべての掟は、「互いに愛しあいなさい」という掟に基づいています。愛されていることを喜び、その恵みを分かち合うとき、わたしたちはもう立派なイエスさま弟子なのです。
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