説教要約 マタイ27:57-66 2023.9.10
「塞がれた口」 井上創牧師
古今東西、人間は死者に対してある程度の尊厳を守ろうとするものなのではないでしょうか。しかし、イエスさまについては、それさえも与えられませんでした。罪人として処刑され、ユダヤの慣例であった「先祖の列に加えられる」こともなく、埋葬さえ急ごしらえで十分なものではありませんでした。
イエスさまの死を暗く塗り潰そうとした祭司長たちとファリサイ派の人々は、更に弟子たちの口をも塞ごうとしました。弟子たちが遺体を盗み出して、生前にイエスさまが「わたしは復活する」と言っていたことが実現したかのように見せかけるかもしれないと考えたからです。そこで墓の入り口を厳重に封印し、見張りを立てるのです。
しかし、イエスさまは復活なさいました。口を塞ぐ力を無効化し、見張りを退けたのです。墓石を除け、弟子たちの目と口を開かれたのです。力ある者たちが「なかったこと」にしようとした小さな声。どれほど封じ込もうとしても、あふれ出してくる命の光が「復活」です。
ピラミッドや大山古墳のように、権力者は墓を立派にすることで自分を大きく見せようとするかもしれません。そのような自己顕示をイエスさまはなさいません。むしろ暗い墓穴のような「自己」を虚しいものとして、そこから飛び出して行かれたのです。そうして出会う他者との交わりの先にどこまでも広がる世界。復活が与えてくれる希望の輝きがそこにはあります。
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