説教要約 マタイ26:57-75 2023.8.6
「証言者として」 井上創牧師
科学的な証拠による検証が難しい時代、証言は判決に大きな影響を及ぼしました。しかし、集められた証言者たちはついにイエスさまを立件することができませんでした。偽の証言であっても、そこから罪を見出し、権力をもって裁くことはできないわけではありません。そうならなかったのは、「人は神の罪を立証できない」ということの表れなのではないでしょうか。また逆に、この裁判においてイエスさまの側に誰もいないのは、イエスさまがこの場で孤独であったというだけではなく、「神を弁護しうる人はいない」ということでもあるのでしょう。
人間には不可能な裁判をしかし決定づけたのは、神の一言でした(64節後半)。これを聞いて大祭司は「冒涜罪」の判決を下します。神御自身がその為すことを告げたのに、人はそれを「罪」と判断する。どちらが冒涜でしょうか。裁こうとしていた人たちが、このようにして自分たちの罪を暴かれる。この裁判では、神の思いから離れているわたしたち「人間の罪」の姿がハッキリと示されているのです。
ペトロもまたイエスさまに味方し、弁護することができませんでした。しかしイザヤ書43章にあるように、「被告人が証言者ともなる」と言われていたことは、後に実現します。ペトロは自分の罪を赦されつつも、それを抱えたまま主のために用いられていくことになるのです。迷いの中で、主を否認する言葉さえも、証として変えられていくときが来るのです。
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