説教要約 マタイ27:15-31 2023.8.20
「血の責任」 井上創牧師
使徒信条で繰り返し唱えられる「ピラト」の名は、単に歴史上の人物である彼個人の行いについて想起するためのものではありません。彼の名を通して、全ての人が同じ罪を抱えていることを、その都度心に刻むためのものです。
ピラトは自己の保身のために、家族や良心に逆らって、群衆の要求を呑みました。その際、自らの手を洗い「わたしにはこの血の責任がない」と言ったのです。ここに人の罪の姿があります。アダムとエバ以来、わたしたちは他者に責任を擦り付けるという性を持ってしまいました。神さまを前にして、言い訳をして責任逃れをしようとするのが、わたしたち人間なのです。
一方、群衆は「その血の責任はわたしたちにある」と叫びます。ここにも人の罪の姿があります。自分たちの選択が誤りだとして、失われてしまった命をどのように取り戻すつもりでしょうか。「戦争」はその最たるものです。わたしたちは自分の正義を押し通すために、他者を傷つけ、取れもしない責任をその身に負おうとしてしまうものなのです。
このようなわたしたちの罪の果てに十字架があります。誰にもどうすることもできない血の責任を神さまが代わって負ってくださったのです。命をもって償うしかなかったバラバの身代わりとして死へと向かわれたイエスさま。バラバの罪状は不明です。わたしたちがどんな罪を犯したとしても、イエスさまはそれを負い、今日も十字架へと向かって行かれるのです。
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