説教要約 マタイ27:1-14 2023.8.13
「生きるにしても、死ぬにしても」 井上創牧師
イエスさまは裁判の間は無言です。神であるイエスさまが口を開けば人々の罪が露わにされ、裁きの結果として全ての人が滅びに至らなければならなくなります。イエスさまはそれを望まれなかったのではないでしょうか。だから、無言を貫いたのかもしれません。
あるいは、イエスさまはユダに寄り添おうとされたのかもしれません。ユダは自分のしたことを後悔し、何とか事態を好転させようとしますが、機会を与えてもらえず、絶望の内に死を選びました。なぜ凶行に及んだのか、その心中を誰に知らせることもなく死んでいったのです。このように人知れず死ななければならなかった者の一人さえも神さまは忘れることはないのだということを、ユダと同じ境遇に身を置かれたイエスさまは沈黙によって伝えようとしておられるのでしょう。
ローマの信徒への手紙14章において、パウロは「わたしたちの生も死も主のため、生きるにしても死ぬにしても主のもの」と言っています。これは神さまに従順に生き、粛々と死を受け入れるということではなく、わたしたちのどのような生き方も、また死も、それがたとえユダのようなものであったとしても、神さまが愛の証へと変えて用いてくださるということなのではないでしょうか。そうであれば、かつて戦場で無言で散っていった命さえもイエスさまの慈しみの内にあるという慰めの報せを、わたしたちは聞くことができるのではないでしょうか。
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