説教要約 マタイ25:31-46 2023.6.4
「小さな者の一人として」 井上創牧師
水を飲ませたか、宿を貸したかと問われるとき、わたしたちはつい「自分自身はどうだったか」と省み、それでは自分は救われる側なのか、そうでないのかと考えてしまいがちなのではないでしょうか。しかし、聖書の御言葉が不特定多数の「わたしたち」を色分けするために語られたのではなく、「わたし」という個人に届けられたものであると考えたとき、自分の中には御心に適う行いをした自分もいれば、そうできなかった自分もいるということに気がつくはずです。
できうるならば、どんなときにも水を分け与え、宿を貸す者でありたいと願いながら、わたしたちは自分の手の中にある水が乏しいことに愕然とすることがあるかもしれません。しかし恐れることはありません。
イエスさまはヨハネ福音書4章において水を乞う小さな者となられました。水を汲みに来た女性は心の奥底が乾き切っていたのですが、イエスさまと触れ合うことで溢れるばかりの命の水に満たされました。イエスさまはわたしたちを満たすために水を乞うておられるのです。わたしたちの手の中にあるわずかなものは、施すことによってわたしたちを満たしていくのです。
だからまた、わたしたちは乏しくとなることも恐れてはならないのでしょう。わたしたちが乞う者となることで、相手は満たされていくからです。へりくだり、仕える者になるとは、十字架の主のように水を乞う小さな者の一人になることなのです。
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