説教要約 マタイ25:1-13 2023.5.14
「婚姻の準備」 井上創牧師
賢いおとめと愚かなおとめ、両者を分けたものとは何だったのでしょうか。どちらも「ともし火」は用意していました。油も持っていたのですが、肝心の「余分な油」を愚かなおとめたちは持っていなかったのです。11節、「ご主人様」という悲痛な嘆きの言葉は、マタイ7章21~23節で語られている「主よ」という言葉と同じです。主人から「お前たちを知らない」と言われてしまうところまで一緒です。
7章のイエスさまの言葉は、預言者と偽預言者の実らせたもので、その真贋を見分けなさいという教えから、「主よ、主よと言う者が皆、天の国に入るのではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」と続きます。ここから、今日の「ともし火」と「油」とは、「主を呼ぶ信仰」と「御心を行うための隣人」だということが見えてくるのではないでしょうか。
わたしたちが「賢いおとめ」と呼ばれるためには、油を絶やさずにいることが必要なのです。それは、イエス・キリストが弟子たちの足を洗ったように、御心に従って仕えるべき他者を傍らに持っているということなのではないでしょうか。
13節の「目を覚ましていなさい」とは、眠ってはならないということではなくて、神さまが備えてくださっている隣人をいつも見出しているようにとの勧めなのでしょう。十字架においてとことんまで身を低くされ、人に仕える道を進まれた主に、わたしたちも従っていきましょう。
Comments