説教要約 マタイ18:15-35 2022.9.11
「なかったことにする」 井上創牧師
わたしたちはなぜ罪を犯した人と話をして、尚且つ証人にまで付き添ってもらって、最終的には教会に訴え出ようとまでするのでしょうか。たぶん、わたしたちは赦したいのではないでしょうか。その人が神さまから赦されて欲しいし、わたしもその人を赦したい。だから話をしようとするのでしょう。
今日の21節からの「仲間を赦さない家来」のたとえ話しは、因果応報について言いたいのではないでしょう。人を裁いたら自分も裁かれるとか、悪いことをしたら罰を受けるとか、そういう話ではなくて、わたしたちが罪を犯した仲間と話し合うのは、裁くためではなくて赦すためだと。イエスさまは、わたしたちが進むべき道を間違えないように、道しるべとしてこの話を語ってくださったのではないかと思うのです。
神さまは、ご自分の中に正しさの指標をお持ちですが、それによってわたしたちを裁くことをせずに、イエス・キリストによってわたしたちを見逃すことを選ばれたのです。そして、赦すこと、借金を、罪をなかったことにすることこそが義である。愛である。真に正しいことであると示してくださったのです。
この神さまの愛を指し示すイエスさまを信じて集っているのが教会の群れです。イエスさまの名のもとに二人または三人が集う。そこにはイエスさまもおられます。そこで献げられる祈りとは、兄弟が犯した罪が赦されるように。わたしも赦す者となれるように。その祈りなのではないでしょうか。
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