説教要約 マタイ17:24-27 2022.8.21
「世を愛された主」 井上創牧師
律法には(出エジプト記30章)、ユダヤ人の成人男性は神殿(幕屋)のためにお金を払うことが定められていました。神殿税を払うようにという要求は不当なものではなかったのです。 しかし、地上の王の子が王に税金を払わなくてもいいように、神の子である者たちは神さまにお金を払わなくてはいいのではないかというイエスさまの言葉も、その通りだと思えます。
そこでイエスさまは「つまづかせないように」との配慮から、神殿税を払うことを選ぶのです。これは、神の子であるという自らの地位に固執せずに、へりくだり、身を低くして世の人々と同じになられたイエスさまの思いやりであり、愛であると言えるのではないでしょうか。
献げものである銀貨をくわえた「最初の」魚は、汚れなき初子、復活の初穂としてのイエスさまを表わしているのでしょう。イエスさまはご自身を神さまへの献げものとすることで、わたしたちの「命の贖い(出エジプト記30章)」となってくださいました。そのため、これ以降、わたしたちは自分の罪のために神さまにお金を献げる必要はなくなったわけです。
今わたしたちが献げるのは自分自身です。ペトロが得意である漁をすることによって銀貨を得たように、わたしたちもそれぞれの賜物を用いることで、贖い主であるイエスさまがそれらを神さまの喜ぶ献げものへと変えてくださるのです。日々の糧を与えてくださる神さまに感謝の思いを献げましょう。
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