説教要約 マタイ15:29-39 2022.7.3
「満たされて散らされる」 井上創牧師
山に登ったイエスさまのもとに、群衆は多くの病人を連れてきて、その足下に横たえます。イエスさまはこの人々を癒されるのですが、それは群衆の思いに応えてのものでした。イエスさまが「かわいそうだ」と、積極的に御自分の思いを露わにされているのは、お腹を空かせた人たちを見た時です。
わたしたちの傷は癒されても、残りの人生の日々において、またどこか傷を得ることがあるでしょう。病も同じことです。治っても、他の箇所が病むかもしれないのです。イエスさまが食べるものの心配をしたのは、「食べることは生きること」だからなのではないでしょうか。傷があっても、病があっても、わたしたちは食べて生きなければなりません。どのようなときでも、わたしたちはイエスさまから食べることができているかどうかと心配され、生きていくようにと願われているのです。
では、癒しには意味がないのでしょうか。そうではありません。ヨハネ9章で、わたしたちが傷や病を得るのは「そこに神さまの栄光が現れるためだ」とイエスさまは言います。今日の31節でも、癒された人々を見て群衆が神さまを賛美しています。
同じように、多くの人に食事が配られて満たされたという奇跡も、わたしたちが神さまを賛美するためのものだったのでしょう。そうして満たされた群衆をイエスさまは最後に解散させられます。それは、散らされたそれぞれの先で、わたしたちが生きた命の糧として、だれかを満たす者となるためなのです。
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