説教要約 マタイ28:16-20 2022.5.22
井上創牧師
イエスさまの遺言のようなこの言葉。「すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことを全て守るように教えなさい」。果たしてわたしたちにはそれができるでしょうか。
かつて、わたしたち人間は旧約聖書の時代に十戒や律法という神さまの言葉をいただきました。もう殺さなくていい、もう盗まなくてもいい。みんなで共に生きていくのだ。そういう思いの込められたこれらの言葉を、人間は互いを裁き、縛り付ける道具としてしまいました。わたしたちの内に潜むこの「罪の力」は、福音として語られたはずのイエスさまの言葉をも同様に裁きの道具としてしまってしないでしょうか。
これからどうしていいのか不安と疑いの中にある弟子たちに、イエスさまは自ら近づき、優しい言葉をかけたのでしょう。「こうしてごらん。そうすれば・・・」と。
洗礼とは、神さまに愛されていることを実感し、これに応えていこうとすることです。イエスさまの弟子になった者が守るべき掟とは「互いに愛し合う」ということであったはずです。わたしたちが迷いと苦難の中にあるなら、その時こそわたしたちは、イエスさまを思い出して、神さまに愛されている互いのために祈ることができたらと願うのです。そうすることで、わたしたちは実感することができるはずです。「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」というイエスさまの約束を。
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