説教要約 マルコ8:31-38 2022.4.3
「命を失う者」 井上創牧師
自分の十字架、と聞いたときに、わたしたちは何を思い浮かべるでしょうか。過失によって損なわれてしまったことへの後悔でしょうか。あるいは、誰かへの負い目でしょうか。過去の悲しい出来事や、肉体の痛みを連想する人もいることでしょう。
イエスさまは言います。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。この「自分を捨て」とは、自分を粗末にするとか、命をないがしろにするということではありません。思い出して欲しいのは、イエスさまの十字架がどのようなものであったかということです。イエスさまは御自分の過失や悲しみをその十字架に負われたのでしょうか。イエスさまはわたしたちの罪や痛みを負われたのではなかったでしょうか。イエスさまが「十字架を背負う」と言うとき、そこには自分自身ではなく他者が意識されているのです。
自分の思いにだけ気持ちがとらわれているとき、すなわち自分の苦しみだけを十字架として負っているとき、わたしたちは死に向かっていました。やがて死と共に、救われたいと願う自分の思いも滅びるだけのことだったのです。しかし、イエスさまの負った十字架をわたしもまた負おうとして生きるならば、他者と重荷を分かち合い、そのつながりの中に生きる意味が与えられていることをわたしたちは知ることになるのでしょう。
他者を思い、そのつながりを尊ぶ。この福音の喜びの内に我が身を投げ出していくことができたらと願うのです。
Comentarios