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2022.3.6 コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章3~7節

 メル・ギブソン監督の『パッション』という映画があります。その名の通り、キリストの受難の場面を描いた映画なのですが、余りに過激な描写のため日本では十分な理解を得られなかったように思います。メル・ギブソンはカトリックの信者です。カトリックには「十字架の道行き」という習慣があります。レントの時期、キリストの受難の14の場面を描いた絵画やステンドグラスを巡り、一つ一つの絵の前で立ち止まり、キリストの受難をじっくりと味わうのです。『パッション』の過剰な演出にはそういう習慣に基づいた意図があったのではないかとわたしは思っています。


 日本のプロテスタント教会でも、レントの時期にキリストの受難を共に味わおうと、節制が奨励されることがあります。ただ、この節制は単に自分を苦しめることを目的としているのではないことは知っておく必要があるでしょう。キリストの受難は、苦しみを通して自分の精神世界を深めるためのものでも、耐える自分に陶酔するためのものでもなかったからです。


 キリストの受難は、わたしたちのためでした。他者の痛みに寄り添うため。わたしたちの生活の苦しみ、社会的な疎外感、存在の虚ろさ。そういうわたしたちの抱える重荷を共に負おうとして、受難にあわれたのです。そして、受難の先にあるもの。「十字架の道行き」の15番目の場面は復活です。共に重荷を負う者は、共に復活の希望を見ることが約束されているのです。


 わたしたちはこのレントの時期、何かを我慢したり、何かを断つということをするかもしれません。しかし、それが隣人の痛みや苦しみとつながっていかないのであれば、それはキリストの受難とは関係のないことです。わたしたちは他者と共に痛むことを通して、やがて慰めも共にすることができるという希望の内に生きることができるのです。   

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