社会の問題について興味を持つための鍵になるのは、一つには当事者としての意識があるかどうかということではないでしょうか。自分と関わりのあることなのだという認識が生まれればその問題に興味も出てくることになるはずです。もう一つは、そこにある痛みに敏感になるということでしょう。たとえ自分と関わりのないことでも、そこで誰かが痛んでいるということを知ったとき、わたしたちがもしもその痛みを自分のものとして感じることができるなら、この問題は決して他人事ではなくなるのです。
イエスさまに「自分の隣人とは誰か」と聞く人がいました。隣人とは、自分が仕えるべき相手のことです。自分の時間や体力、ときには財力を注いでその人のために何かをする。そういう相手が隣人という存在なのです。イエスさまはたとえ話を始めます。傷ついた旅人がいました。この人はおそらく、ユダヤ人でしょう。この倒れ伏した旅人を横目に見ながら、同胞を愛することを教えていた祭司やレビ人は素通りしていきました。一方で、ユダヤ人が関わりを持たないようにしてきたはずのサマリア人が、この旅人を憐れみ、助け起こし、手当をし、宿の手配までしてくれるのです。イエスさまはここまで話して、「ではだれがこの旅人の隣人になったと思うか」と聞きます。
どうやらイエスさまにとって「隣人」とは、既に隣にいる人のことではないようです。「隣人」への愛は、もう仲間である同胞に向ける愛とは少し違うのでしょう。「だれが隣人となったと思うか」という問い。隣人とは「なる」ものなのです。それまで関わりのなかった人、関わりの薄かった人。そういう人の痛みを知り、寄り添っていくこと。それが隣人愛なのです。イエスさまは言います。「行って、あなたも同じようにしなさい。」社会の問題に取り組むことは、教会に連なる者にとって大切な愛の業なのです。
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