説教要約 マタイ20:17-28 2022.10.9
「十字架を飲む」 井上創牧師
弟子たちは、前回のたとえ話に出てきた労働者たちと同じように、自分たちは早くからイエスさまに従い働いてきたのだから、それだけ多くの報いを受けるはずだと思っているようです。
イエスさまはそういう弟子たちに「わたしの飲む杯を飲めるか」と問います。この杯は、仕えられる者となる権力を手に入れた際の祝杯ではなく、全身全霊をもって人に仕えるためになるための杯です。イエスさまにとってそれは十字架の血を注ぎ入れるための、苦しみの象徴のようなものでもありました。
十字架の前夜、イエスさまは弟子たちを連れてゲツセマネの園で祈りをささげました。苦しみの時を前に、目の前の杯が取り除かれるようにと祈るイエスさまでしたが、肉体に弱さを抱える(思わず眠ってしまう)弟子たちを見て、再び祈るときには「御心が行われるように」と祈るのです。自分が仕えるべき相手を思い出し、決意を固められたのではないでしょうか。
わたしたちも聖餐式のたびに「この杯を飲みなさい」と勧められます。「飲めます」と即答した弟子たちのように、わたしたちも確たる決意をもってその杯を手にしているわけではないかもしれません。しかし、イエスさまは宣言してくださるのです。「今は十分に理解し、覚悟しているわけではないかもしれない。それでも、あなたはこの杯を飲むことになる」。弟子たちが宣教のわざを担う者となったように、わたしたちも真の隣人を見出し、仕える者となることができるときが必ず来るのです。
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