説教要約 マタイ25:1-13 2022.10.30
「花婿を迎える」 井上創牧師
終末の遅延は、地上に倦怠感と停滞感をもたらしました。このため、中世ヨーロッパでは、現世における利益と死後の世界に注目が集まります。宗教改革は、このような世界にもう一度終末の緊張感を取り戻すための出来事でもあったのでしょう。
宗教改革者であるルターは、終末について「既に来ているが」「未だに来ていない」という矛盾した言い方をしました。これは、言い方を変えれば、やがて来る終末の時に救いの完成が確かなこととして約束されているのだから、その約束を「必ずなる」と信じる人にとっては、それは「なったも同然である」ということです。わたしたちは簡単に答えが出てしまうと安心して、それ以上考えようとしなくなりがちです。だからこそ、ルターは二つの対立するような命題を並列して、そこに緊張感を生もうとしたのではないでしょうか。
花婿である再臨のキリストを待ち望む花嫁であるわたしたちは、心の内にその備えをしておくべきなのでしょう。それでも眠くなってしまう肉体的弱さを抱えたわたしたちが目を覚ましているためにも、わたしたちは「既に来ている」キリストに気がつくことができたらと願うのです。
マタイ25章35節からの箇所、「この小さい者の一人にしたことは、わたしにしたことなのである」とキリストは教えてくださいます。小さくされた隣人に仕えることで、わたしたちはいつでも再臨のキリストに会うことができるのです。
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