マラキ書において神さまは、わたしたちが神さまを偽っている、神さまに立ち帰っていないと言います。一体何をもって、わたしたちが偽り、立ち帰らないと言うのでしょうか。それは、「十分の一の献げもの、献納物において」であるようです。この十分の一というのは当時の税制においては安価であったと考えられます。それだけでもいいから献げてみなさい。「試してみよ」と神さまは言われます。そうすれば、祝福が限りなく注がれていることがわかるはずだ、と。
マルコによる福音書においてイエスさまは、「明日のことで思い悩むな」と言います。結局、わたしたち人間には明日自分の命がどうなってしまうかということさえわかりません。それよりも、固く握りしめているものを離し、神さまにこの身を献げ委ねてみると、この一日の中に溢れていた恵みに気が付くことができるはず。空の鳥、野の花にさえ、神さまの愛は満ちているのだと、イエスさまは教えてくださっているのでしょう。
そうしてみると、献金というのは神さまの祝福に気が付くため、わたしたちが持っているものを手放してみるという、一種の訓練のようなものなのかもしれません。自分の手の内にあるもので自分の命と生活を保っていると思っていると、傲慢になり、他者への寛容を失い、注がれている神さまの愛に気が付きにくくなってしまうからです。委ねて生きる生き方をいつも覚えていられるように、わたしたちは献金をするのでしょう。
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