説教要約 マタイ12:43-45 2021.9.12
「悪霊を招く潔癖さ」 井上創牧師
ローマ帝国は支配下にある多くの属州において、信教の自由を保障していました。しかし、民俗宗教であるユダヤ教は、自分たちの民族としての独自性を維持するために、他の国の習慣や風俗と交わることを良しとせず、律法を始めとして様々な教義で人々の生活を統制しました。純粋であろう、清くあろうとする潔癖さは、一方で他者を裁き、排他的になり、寛容さを失うことにもなっていきました。わたしたちもこのような「原理主義」とならないように、心の内を掃き清めたならば、そこに豊かな愛の源であるイエスさまに住んでいただきたいものです。
おそらく、人は誰もが生きていく中で心の内に大きな空洞を持つのでしょう。それは、寂しさであったり、虚しさであったり、やるせなさであったり、人それぞれです。そして、その穴を埋めるために、お酒を飲んだり、たばこを吸ったり、薬に頼ったり、テレビやインターネットを見ることで何となく解消したりしています。同じようにして、教会やイエスさまを穴埋めとして利用するなら、それはあまり健全な状態とは言えません。
イエスさまは、旅の中で宣教をしました。そして、わたしたちの人生も旅路に似ています。深く空いた穴をのぞき込み、見極め、じっくりとそれに触れることは、辛く苦しいことです。しかし、イエスさまはその旅に伴っていてくださり、最後には明るく照らされたわたしたちの内に住んでくださるようになるのではないでしょうか。
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