説教要約 マタイ9:9-13 2021.4.11
「罪人を招く」 井上創牧師
人が罪を得たのは、エデンの園において「善悪の知識の木」の実を食べたからだと聖書は語ります。絶対的な正義を判別できないにも関わらず、人を罪に規定しようとすること自体が、神さまの領域を侵していることになるのでしょう。人間は、神さまの言葉である律法によって互いを裁き合い、ついには神さまのこどもであるイエスさまを十字架につけてしまうのです。
医者は患者を治すことはできません。医者は患者を診て、その病根を探り当てるのです。そして、何をしたらいいのか、これまでとは何を変えて、どう過ごしたらいいのかというアドヴァイスを与えます。病人は、自分の病を断定することはできません。医者の診断を経て、自分がどのような病か知るのです。
罪も同じなのではないでしょうか。わたしたちは自分で自分の罪を定めることはできません。まず自分自身に違和感を持ち、何やら具合が悪いと思うことから全ては始まります。そして、イエス・キリストの十字架を通して、自らの中に罪があることを示していただきます。祈りと、聖書の御言葉によって、毎日をいかに過ごしていけばいいのかがわかってくるのです。
ですから、わたしたちにとって大切なのは、裁きとそれに見合った報いを求めること(他者にも自分にも)ではなく、憐れみなのです。痛みに対して心を動かし、この世界の違和感に気づいていく。イエスさまはそういう罪人(病人)、すなわち憐れみに富んだ人を招いておられるのです。
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