わたしにも体が痛むときがあります。そういうとき、わたしは二つのことを考えます。一つは、この頃の自分は、(あるいはこれまでの自分は)心身を気遣って生きていたかどうかということ。忙しかったり、ストレスを抱えたままだったり。そういう心身から「もう無理だよ」というサインを見逃して、見ぬ振りしてこなかったかどうか。痛みは、そういうことを改めて自分に問いかけるよいチャンスだと思っています。
今、世界は大きく病んでいます。この病が世界を包んでいくタイミングで、人類がSDGs (持続可能な開発目標: Sustainable Development Goals )という思考に目覚めたことは無関係ではないように思います。痛むとき、病のときにこそ、わたしたちは立ち止まって、じっくりとこれまでの在り方について考えてみるようにと、呼びかけてられているのかもしれません。
痛むとき、わたしが考えることの二つ目は、「今が恵みのとき」だということです。神さまがデザインしてくださった心身であるなら、それが痛むということは神さまからの「休みなさい」というメッセージ、「よく頑張ったね」というご褒美のときなのかもしれません。
これまでの頑張ってきた歩みを止めざるを得ないことで、残念な気持ちにもなることもあります。しかし、いざ腹を決めて止まってみると、進むことだけが大切なことだと思い込んでいた自分にも気づかされます。止まっているときだからこそ、足下に咲く花の美しさを味わうこともできるというものです。しゃべり続けていたら、相手の声は聞こえないのです。
コロナで教会の動きは制限されています。しかし、その状態であるからこそ気がつくこと。動いているときは見逃していた、注がれ続けてている神さまの恵みに気がつくことができたらと願うのです。
Commentaires