わたしたちが人権を持っているということは、人として生きていていい、わたしはわたしという存在として認められているということなのではないでしょうか。日本国憲法には「憲法は国民に人権を保障する」と書かれています。保障とは、既にあるものをそのままの状態に保っていくという意味です。では、この人権は誰によって与えられたのでしょうか。憲法は、先ほどの記述の後に「人権は永久の権利として国民に与えられる」と続けていますが、この「与える」の主語は不明確です。誰が人権を与えるのでしょうか。
キリスト教国においては、答えは簡単です。わざわざ言わなくても、それは神さまです。神さまが人を創造して、それは極めて良かったと聖書では言われている。だから、人は人として生きることが認められ、望まれている。これが、後に生まれてくる人権という思想の根っこになっていたのです。
西洋からこの人権の思想を輸入したとき、日本ではキリスト教に対する警戒を解いていませんでした。そのため、「神さまの創造の業としての人間」というモデルを用いずに、人権は神に代わって天皇がこれを与え、また取り上げたりするものと教えました。戦後、新しい憲法になっても、神不在のままでは誰が人権を人に与えるのか明確にはなっていません。このことが、自民党の改憲案の緊急事態条項において「人権は最大限に尊重される」としながらも、なおそれが侵害される可能性を残していることにつながっているのかもしれません。
人を創造した神さま以外の誰が、人に「生きよ」と望むことができるでしょうか。また、「生きてはだめだ」と言うことができるでしょうか。わたしたちは望まれて今日という日を生きています。そのことを大切に受け止め、命を与えられている意味を祈りの内に問うことができたらと願うのです。
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