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2021.1.30 詩編51編18~19節「貴い献げもの」

 全知全能であられる神さまは、わたしたちが献げるどんなものも、御自分でお造りになることができます。お金も、作物も神さまには別段必要ではないのです。それでは、わたしたちは何故献金をするのでしょうか。教会の御用のためというのは間違いではありません。しかし、もし神さまがそうしようと思われるのであれば、教会の富を潤沢にすることはできるはずです。わたしたちがささげなければ神さまのご計画が達成されないというのは、人間の驕りかもしれません。


 聖書は、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」だと言います。どんな立派な財宝でもなく「砕かれた霊」こそが神さまの求めているものなのだと言うのです。砕かれた霊とは、暴力によって打ち据えられて弱った心ではありません。また、罪悪感によって軋み呻いている心でもありません。これは、神さまを前にしてへりくだる心をあらわしています。「悔いる心」という言葉も、単なる後悔ではなく、神さまに向き直ることを意味しています。


 イエスさまは十字架の上で、最も貴い献げものとなってくださいました。地上にある造られたものではなく、罪無き小羊として、創造者である神さまご自身が献げものとなってくださったのです。それは、自分の命をも献げる十字架の愛を通してわたしたちが神さまに立ち帰るためでした。イエスさまの十字架よってわたしたちは砕かれ、悔いる心を取り戻すのです。


 教会は、このイエスさまの愛を繰り返し心に刻むために礼拝を守っています。礼拝の一つ一つのパートは、イエスさまの十字架に示された神さまの愛をじっくりと思い出していくためのものなのです。礼拝の終盤、献金のときは、わたしたちが感謝と共に小羊キリストを献げ、一自分たちもこの「献げる愛」に生きていくという思いを新たにするときなのです。 

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