わたしたちは自分の命がいつ終わるのかを知りません。イエスさまは、それを定めておられるのは神さまであると言います。命はままならないもの。与えられるもの。そうであるなら、この新しい一日という時間も、わたしたちの身の回りにある全てのものが備えられ、与えられたものと言えるのではないでしょうか。
イエスさまは「命のことで何を食べようかと思い悩むな」と言われます。これは、食事の心配をするなということではないでしょう。わたしたちは食べなければ生きていけません。神さまはわたしたちに「生きようとするな」と言うでしょうか。生きようとすることは悪いことではないはずです。
わたしたちは生まれたばかりの頃は、自分の力ではほとんど何もすることはできません。周りの世話になってようやく生きていくことができます。そのことに疑問を持つ赤ん坊はいないでしょうし、当然のことなのです。誰かの世話になって、誰かに助けてもらいながら。そうやって生きてきて、わたしたちの今があるのではないでしょうか。烏も花も、自然の中で複雑に絡み合った関係の中で、神さまに生かされてこの日を過ごしているのです。
この命が今日も生きていくのだとしたら、それは自分の力ではないのでしょう。多くの助けがあって、わたしたちの命があります。助け合い、互いに思いやり合い、祈り合う。そういう関係の中に「神の国」が生まれるのです。安らぎと、労りに満ちた神の国が。
教会はこの「神の国」の先触れであって欲しいとわたしは願っています。神の国は近づいている。その宣教を担うために教会は生まれたからです。自分の命が生き長らえることだけに思いを寄せるのではなく、互いの命のこと、互いのこの一日のことを思い合い、祈り合えたらと願うのです。
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