「良心の働き」 2020.5.10
コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章23~31節
ギリシア語において、良心という言葉は「意識」というふうにも訳せます。
また英語において良心はconscienceです。
conは「共に」という意味で、後半部分は「知る」という意味からできています。
日本語の「良心」という言葉から連想されるような
「良い」や「悪い」というイメージは、もともとの言葉にはないのです。
では、誰と「共に」、何を「知る」のでしょうか。
これはやはり、神さまの御心を知り、それを共にしていくということではないかと思います。
自分が何かをしようというときに、己の願望を第1とするのではなく、
神さまがどう思っておられるかを考えてみる。
自分の外にある存在に意識を向けてみる。
そこから感じられるものが「良心」と呼ばれているものなのでしょう。
日本語には「良心の呵責」という言葉があります。
悪事を行う者が、自分の行いに後ろめたさを感じる。
心のどこかで「これでいいのだろうかと」誰かが囁きかける。
その声の主に耳を傾けるとき、
わたしたちは自分の中の良心に気がつくのではないでしょうか。
神さまに向かい合うこと。
それは個人個人の体験によるものです。
神さまは一人一人に相応しい形で語りかけてくださいます。
だから、わたしの良心と、あなたの良心は違っていいのです。
ただし、それが己の願望にのみ基づいていないかどうかということには、
よく注意する必要があるのでしょう。
イエスさまは十字架の最後の時まで、神さまに聞き続けるお方でした。
自分の思う通りの結果が与えられないとしても、神さまの想いに心を注ぎつつけたのです。
この禍の時、わたしたちも耳を澄ませることができたらと思います。
神さまが、他ならぬ「わたし」に何を語りかけておられるのか。
それぞれが御言葉に静かに向かい合う、そんな恵みの時を過ごしましょう。
*教会の庭の様子。
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