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2020.4.19 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:12~22「もし死が終わりなら」

  • 2020年4月20日
  • 読了時間: 2分

更新日:2020年4月29日

「もし死が終わりなら」  2020.4.19

コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12~22節


ユダヤ教において生まれた復活の教理は、

信仰に準じて死ぬことを恐れない戦士を生み出すことが、

その起源であったと言われています。


死が終わりではないことを教え、その向こうの世界にこそ幸せがある。

だから命を捨ててでもなすべきことをなせと教えたのです。


キリスト教も同じように教えていた時代がありました。

しかし新約聖書をよく読むと、

イエスさまは「自分を愛するように、隣人を愛せ」と教えてくださっています。


自分を愛することがまず第一歩なのです。

これはまた、自分の命を粗末にする人は、

他者の命も大切にすることはできないということでもあるでしょう。


神さまが一つ一つの命を大切に思ってくださっているという御心を受け入れていくのが信仰です。

そのような信仰に生きることと、自分の信念に準じて死ぬこととは違うのです。



パウロは、キリストが眠りについた人たちの初穂となったと言います。

死という、人間にはどうしようもできない限界を超えてくださるほどに、

神さまはイエスさまを愛してくださった。


それこそがキリストの復活なのでしょう。

そして、わたしたちも同じように、神さまに愛されているのです。

復活を信じると言いながら、この愛を疑うなら、復活には何の意味があるでしょうか。

愛を知らぬままならば、永遠の命も虚しいものになってしまいます。



もしも死がすべての終わりなら、わたしたちはこの世界に生まれ、

この世界で生きていることの意味を見失ってしまうのではないでしょうか。

神さまがわたしたちを愛し、望んで、命を与えてくださったのだと信じることができるなら、この命は死を超えて生かされていくのだという「復活」を、喜びのうちに受け入れていくことができるのではないでしょうか。 

 
 
 

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